京都府乙訓郡大山崎町大山崎白味才、天王山の東麓に位置する真言宗単立寺院。
「山崎の聖天さん」として京阪神の人々から厚い信仰を受けている寺院で、山号は妙音山で、本尊は十一面千手観音。
寺伝によると、平安中期の899年(昌泰2年)、第59代・宇多天皇(寛平法皇)(うだてんのう 867-931)の御願寺として創建されたと伝わりますが明確ではなく、記録上は江戸前期の1681年(延宝9年)に摂津国箕面の勝尾寺の僧・木食以空(もくじきいくう)が夢告によって当時を中興開山し、聖天堂を興して歓喜天を祀ったとされています。
以後は第112代・霊元天皇(れいげんてんのう 1654-1732)・第113代・東山天皇(ひがしやまてんのう 1675-1710)・第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう 1702-37)の厚い帰依を受け、また商売繁盛・家運隆盛などの現世利益を願う住友家・鴻池家・三井家などの豪商たちの信仰を集めたほか、京都や大阪の商人の参詣を得て大いに発展。中でも住友家は立派な青銅製の大燈籠を寄進しており、現在は触れると商売繁盛が叶うとされるパワースポットとしても人気を集めています。
その信仰の対象となったのが本堂横の聖天堂に祀られた歓喜天で、本尊の観音菩薩よりも有名になり「山崎の聖天さん」として世間にも知られ、江戸時代を通じて栄えましたが、幕末の1864年(元治元年)に起こった「禁門の変」の兵火で本尊の十一面千手観音菩薩と秘仏の歓喜天は事前に避難させていたため焼失を逃れたものの、一山が灰燼に帰し、現在の伽藍は1890年(明治23年)以降に順次再建されたもので、聖天堂は天皇の命令により神社造で造られているほか、寺院でありながら鳥居の姿を見ることもできます。
毎月1日と16日の縁日には現在も多くの参詣者で賑わうほか、行事としては毎年4月初旬に開催される「花まつり」が有名。
その他にも境内地の東斜面には昭和初期に植えられた桜が多くあり春は桜の名所、また秋には紅葉や銀杏の黄葉が境内一面を彩る隠れた名所としても知られています。
ちなみに「聖天」とはは仏教の守護神である天部(毘沙門天・帝釈天・吉祥天などの天界に住む神々の総称)の一つである「歓喜天」の別名で、正式には「大聖歓喜大自在天(だいしょうかんぎだいじざいてん)」。
原型は古代インド神話において最高神・シヴァ神の息子で象を神格した「ガネーシャ神」と言われ、ガネーシャ神は元々は障害を司る神で人々の事業を妨害する魔王として恐れられる存在でしたが、やがて障害を除いて幸福をもたらす神として広く信仰されるようになりました。
ヒンドゥー教から仏教に取り入れられる際にも悪神が十一面観世音菩薩によって善神に改心し、仏教を守護し財運と福運をもたらす天部の神となり、日本各地の寺院で祀られるようになりました。
象頭人身(頭が象で体は人間)の姿で単身像と双身像があり、このうち双身像は男天と女天が相抱擁している姿で、夫婦和合・安産・子授けの神様として信仰されています。
そしてそんな聖天さんのシンボルとなっており、聖天を祀る寺院の境内で意匠としてよく見かけるのが「巾着袋」と「大根」ですが、大根は夫婦和合や縁結び、巾着は砂金袋(宝袋)で商売繁盛のご利益を現わしているといいます。
またその姿を見ると良くないことが起きるという言い伝えもあり、一般的にはその姿は簡単に見ることが出来ないよう多くは厨子などに安置され、秘仏として扱われており一般に公開されることは多くないといいます。
そして「百味供養」といわれるようにたくさんの供物をささげると多くのご利益が得られるともいわれ、平時より供物は欠かさず、また御縁日である毎月1日と16日には特別な供物が供えられるといいます。
中でも歓喜天の好物として有名なのが聖天さんのシンボルとして知られる「大根」であり、また仏教と共に遣唐使が中国から伝えて以来千年の昔より形を変えずに伝えられているという「歓喜団(かんきてん)」というお菓子だといいます。
なお歓喜天が祀られている寺院は「○○聖天」と通称されることが多く、京都府内では乙訓郡大山崎町の観音寺(山崎聖天)の他にも京都市上京区の雨宝院(西陣聖天)や京都市東山区の香雪院(東山聖天)、京都市山科区の双林院(山科聖天)、木津川市の光明山聖法院(銭司聖天)があります。