京都市右京区花園扇野町、JR花園駅前の向かい側やや西、古くから名勝の地として知られる双ヶ丘(ならびがおか)の東麓に位置する律宗の寺院。
開基は待賢門院、山号は五位山、本尊は阿弥陀如来。
平安初期の830年頃(天長年間)、右大臣・清原夏野(きよはらなつの 782-837)がこの地に築いた山荘をその没後に寺に改めたのがはじまり。
双ヶ丘の麓にあったことから「双丘寺(ならびがおかでら)」と呼ばれたといい、境内には当時から多様な花が植えられていたといわれていて「花園」の地名の由来にもなったといわれています。
それから約20年後の858年(天安2年)には文徳天皇の発願で大伽藍が建立され、定額寺に列せられるとともに「天安寺」と号しています。
その後は次第に衰退し事実上の廃寺となっていましたが、平安後期の1130年(大治5年)に鳥羽天皇の中宮・待賢門院(たいけんもんいん 1101-45)が再興。この時に現在の「法金剛院」の寺号に改められました。
待賢門院は藤原氏の出身で元の名は璋子(しょうし・たまこ)といい、鳥羽天皇の中宮であるとともに、崇徳天皇、後白河天皇の母にもあたる人物です。
寺は都の西方に極楽浄土を求めて設計され、西御堂と南御堂のほか、東に寝殿と壮麗な伽藍が建立されたほか、中央に池を掘り、極楽浄土を模した風雅な庭園が設けられたといいます。
そして待賢門院は晩年をこの地で過ごしたといい、その美貌に惹かれて西行はじめ多くの歌人が集って歌を詠むなど、さながら文化サロンのような様相を呈していたといいます。
鎌倉時代に入ると度重なる火災などで再び寺勢は衰退しますが、鎌倉後期に融通念仏で知られる円覚上人(1223~1311)が唐招提寺より入寺して復興。この時に現在の律宗に改められています。
更に室町時代にも「応仁の乱」の兵火で焼失しており、この時は江戸初期の1617年(元和3年)に泉涌寺の照珍上人により復興され、現在の本堂はこの時に再建されたものですが、旧状に復することはなく、更に明治時代になると山陰線の敷設により寺の土地の南半分が失われたといいます。
最盛期には九体阿弥陀堂、丈六阿弥陀堂、待賢門院の御所など、多くの堂宇が立ち並んでいたといいますが、上記のような度重なる兵火や災害などにより壮観だった創建当時の面影はありません。
しかし待賢門院が阿弥陀極楽浄土の世界をイメージして造園したとされ、荒廃し地中に埋もれていた平安末期の池泉回遊式の浄土式庭園の遺構の発掘調査が1968年に行われ、その後1970年に発掘・復元されており、当時の姿を今に伝える唯一の遺構にして日本最古の人工滝とされている庭園北側の「青女の滝(せいじょのたき)」とともに国の特別名勝に指定。
この大きな池を中心とした庭園を回遊しながら四季折々の美しい草花を鑑賞することができ、「関西花の寺二十五ヶ所」の第十三番札所にも選定されるなど、近年は「花の寺」として市民に親しまれています。
とりわけ春の桜や、夏の蓮、更には秋の紅葉が美しいことで有名ですが、その他にも香り高い菩提樹(ボダイジュ)や沙羅の木と呼ばれる夏椿(ナツツバキ)、そして花菖蒲(ハナショウブ)や紫陽花(アジサイ)などでも知られています。
中でも蓮(ハス)の名所として名高く、7月から8月上旬にかけて、特別名勝の池泉回遊式の庭園には約90品種もの蓮が次々と咲き揃い、まるで極楽浄土がこの世に現出したかのような美しい景色が一面に広がります。
観蓮会として早朝開門も行われていて、朝早くから美しい蓮を見ようと多くの参拝客が訪れます。
この他にも桜の名所としても有名で、染井吉野(ソメイヨシノ)や枝垂桜はもちろん、濃い紅色をした紅枝垂桜(ベニシダレザクラ)で待賢門院ゆかりの「待賢門院桜」がひと際美しいことでも知られています。
仏像、美術品を数多く所蔵しており、中でも丈六阿弥陀堂の本尊と推定される本尊・阿弥陀如来坐像は定朝様で像高2.2mを超える立派な仏像で、蓮の彫刻が見事であり、平安後期の代表的な仏像として重文にも指定されているほか、京都十三佛霊場の一つにも数えられています。
その他にも荘厳で手が四手あるのが珍しい「十一面観世音菩薩」など、重文指定の仏像を多数収蔵しています。