京都市右京区御室双岡町、世界遺産仁和寺のある御室地区の南側、JR花園駅にほど近い京都盆地の北西部の住宅街に囲まれる中にポツンと浮かぶようにしてある独立丘陵。
読み方は「ならびがおか」ですが、漢字表記については双ヶ丘のほか、雙ヶ岡や双ヶ岡、双岡、並岡、雙丘、双岳など、様々な表記が存在しています。
南北約700m、東西170~350mで、山域の総面積は189㎡、一番北にある標高116mの一の丘から、標高102mの二の丘、標高78mの三の丘と徐々に低くなりつつ、南北に連なる3つの小丘で構成されています。
地理的な関係としては山麓の南側には東西に「丸太町通」、丸太町通に並行する形でJR山陰本線(嵯峨野線)が通っており、JR花園駅の西側が丘陵の南端となっており、西麓には御室川とその東に「国道162号(周山街道)」が南北に走り、500mほど北の所で京都西部の交通の要衝である「福王子」交差点に合流します。
そして東麓には臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺の大伽藍と桜など四季折々の草花が美しい法金剛院、北麓には嵐電御室仁和寺駅を挟んで世界遺産の仁和寺があり、更に丘のやや南西には東映太秦映画村や広隆寺などがある太秦地区があり、歴史的な文化財や観光スポットに囲まれた立地となっています。
この双ヶ岡には、古墳時代後期の6世紀後半から7世紀前半に築かれた24基の古墳があって、「双ヶ岡古墳群」と呼ばれていて、地理的な関係から古代に丘の南西に位置する太秦の地を治めていた渡来系氏族・秦氏のものだと考えられています。
一番高い位置にある北側の一の丘の頂上に単独で築かれた「1号墳」があり、それ以外は直径10~20mほどの小型の円墳で、一の丘と二の丘の間の谷筋に9基、二の丘の頂上に1基、そして二の丘の南裾から三の丘にかけて13基が分布。
このうち1980年(昭和55年)に行われた発掘調査によって、1号墳は直径44m、高さ8mの巨大な円墳で、同じ太秦地域にあり巨大な石室で有名な蛇塚古墳と比べても遜色のない大きさの横穴式石室を備えていて、その入口は南西、すなわち太秦や嵯峨野の方向に向けられており、また出土遺物から6世紀後半に造られたもので、石室の規模からも首長の墓と考えられることから、太秦を本拠とした秦氏の長者、同時期に史書に名を留める秦河勝(はたのかわかつ)かその一代前の首長ではないかと考えられています。
時代が下がり794年(延暦13年)には第50第・桓武天皇によって「平安京」に都が遷されますが、この点、京都盆地には西に標高116mの双ヶ丘のほか、東に標高105mの吉田山(神楽岡)、、そして北に標高112mの船岡山という3つの孤立丘があり、平安京の造営の際には船岡山の正中線(中央をまっすぐ通る線)が平安京の南北の中心線となったといわれていますが、その他にも平安宮の大極殿が双ヶ丘と吉田山を結ぶ直線状にあることから、双ヶ丘と吉田山が大極殿の位置の基準となったとも、2つの丘を結ぶ線が一条大路になったともいわれていて、また藤原京の大和三山と対比から船岡山と吉田山、双ヶ丘を平安京の「葛野三山」と名付け、平安京遷都の詔にある「三山が鎮をなす」はこの3つの丘だとする説もあるそうです。
そして都が平安京に遷されると、平安京の北西に位置し一帯は天皇が鷹狩などを行なうための遊猟の地となり、その名勝ぶりは847年(承和14年)に丘の東墳、現在の法金剛院の背後の山に従五位下という貴族の位が授けられたほどで、その名は「五位山古墳」として現在も残されています。
また風光明媚な所から山麓には多くの貴族の別業(別荘)が営まれたといい、その中でももっともよく知られているのが右大臣・清原夏野の山荘です。
清原夏野(きよはらのなつの 782-837)は平安初期の公卿で、桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明の5代の天皇に仕え、832年(天長9年)には右大臣となり、「日本後紀」や「令義解」などの編纂にも関わった人物で、双ヶ丘の南東部に山荘を営んだことから「双岡大臣(ならびがおかのおとど)」と呼ばれ、夏野の没後に山荘を寺に改め「双丘寺」としたのが現在の「法金剛院」の前身です。
またかつて三の丘の東麓には水鳥も群れをなした「双池」という大きな池があり、現在は住宅地となっていますが、双ヶ丘とともに歌枕として詠まれたといい、双ヶ丘を歌枕とする歌としては後宇多上皇「色々に ならびの岡の 初もみぢ 秋の嵯峨野の ゆききにぞ見る」や、兼好法師「契り置く 花とならびの 岡の辺に 哀れ幾世の 春をすぐさむ」などがあります。
このうち双ヶ岡に葬られることを願う歌を残した兼好法師(吉田兼好)(よしだけんこう 1283-1352頃)は、京都・吉田神社の神職・卜部兼顕(うらべかねあき)の子で俗名は卜部兼好(うらべかねよし)といい、堀川内大臣と呼ばれた堀河具守の家司(けいし)となり、1301年(正安3年)に後二条天皇が即位すると、天皇の母である西華門院が堀川具守の娘であった縁から六位の蔵人として仕えることとなりますが、1308年(延慶元年)に天皇の崩御に伴って宮廷を退き、1313年(正和2年)頃に30歳で出家。俗名を音読して法名とし「兼好法師」と呼ばれました。
その後は二条為世に和歌を学んで「続千載集」以下の勅撰集にも入集するなどして頓阿・浄弁・慶雲と合わせて「和歌四天王」と呼ばれ「兼好自撰家集」を残しているほか、儒教・老荘の思想にも通じ、50歳前後でまとめたといわれる「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて」で始まる「徒然草(つれづれぐさ)」は清少納言の「枕草子」とともに随筆文学の代表とされています。
その兼好法師は修学院、横川などに隠棲した後、双ヶ丘の二の丘の西麓の庵で余生を過ごし、この地で「徒然草」を執筆したと伝わっており、作中に仁和寺周辺の記載が多く見られるのもこのためで、一の丘の東麓にある「長泉寺」には兼好の墓と歌碑が残されています。
1941年(昭和16年)11月13日には京都盆地における卓越した展望地点であることが評価され「雙ヶ岡」として「国の名勝」に指定され、1964年(昭和39年)にホテル建設用地としての売却構想が持ち上がった際にも地元住民を中心とした建設反対の声が上がり開発の危機は回避されていますが、この開発問題がきっかけとなって1966年(昭和41年)には「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都保存法)」が制定されており、同法における歴史的風土特別保存地域に指定されたほか、同年には都市計画法の歴史的風土保存区域にも指定されています。
当丘は戦後は仁和寺の所有となっていましたが、その後1978年(昭和53年)に京都市が一部を公有化して環境整備を進め、1986年(昭和61年)からは一般にも開放され、市民にも親まれるようになり、ミニハイキングにおすすめなほか、夜景スポットとしても知られています。
東麓には「つれづれの道」と呼ばれる遊歩道が整備され、道沿いには桜などの花木を中心にした「はなみのひろば」と、疎林と芝生の「こもれびのひろば」の2つの広場が設けられたほか、山内にも散策路を整備し、市中心部から東山が一望できる「とおみのひろば」のほか、南西の嵐山や北麓の仁和寺の境内を一望できる一の丘の1号墳の前の小広場にもベンチや説明板が設置されています。
また地元では地域住民の団体として「双ヶ岡保存会」が結成され、年に100回以上の清掃活動を行い地域のシンボルとしての双ヶ丘の保全活動に取り組んでいるといいます。