京都市内の下京区と東山区の境を流れる、鴨川に架かる五条通の橋。
1139年の「百錬抄記」に清水橋(五条橋)架橋の記録が残っているように、五条大橋は古くから洛中から鴨川東岸、とりわけ清水寺参詣のための橋として架橋されていたといいます。
ただ当初の橋は現在の五条大橋より2筋上流、「清水道」への交差点へと続く現在の松原通(旧五条大路)と鴨川の交差する「松原橋」の位置に架かっていました。
このため平安末期に弁慶と牛若丸(源義経)が出会った場所としての伝説がある五条大橋も現在の松原橋の位置にあった橋です。
清水寺への参詣路であったため「清水橋」、また架橋費用を清水寺僧侶が勧進して回ったことから「勧進橋」の名前で呼ばれていました。
現在の五条通はかつての六条坊門小路にあたり、現在の場所に移されたのは天下人となった豊臣秀吉の「京都改造計画」の時で、1589年(天正17)(1590年(天正18年)とも)、方広寺大仏殿(東山大仏)の造営にあたり、秀吉の命により増田長盛を奉行として三条大橋とともに石柱の橋に改修されています。
この時に郊外へ続く街道筋に当たっていた六条坊門通に架橋され、御土居築造に伴い従来の五条大橋は撤去されました。
そして橋の東側にある方広寺大仏殿へ続くことから「大仏橋」とも呼ばれ、通りも「橋通」「大仏橋通」「大仏通」などを経て、やがて「五条通」が定着したといいます。
橋の東側は東国に至る「渋谷街道」への入口とされるとともに、「京の七口」の一つで南へと続く伏見へ至る「伏見街道」の起点ともされた、「五条橋口」「伏見口」「竹田口」「木幡(こわた)口」とも呼ばれ、伏見から更に南の、宇治、大和、伊賀などの「洛外」へ通じる重要な街道口でした。
その後も1935年(昭和10年)6月の「鴨川水害」などの水害や大火、地震などで幾度か倒壊する度に再建され、現在の橋は五条通の拡幅工事に伴い1959年(昭和34年)3月2日に架け替えられたもの。
京都の東西交通の大動脈である国道1号や国道8号の一部となるなど現在も交通の要衝であり、交通量も非常に多いことから、鉄筋構造で幅も広く設計されているのが特徴です。
高欄も石造となりましたが、擬宝珠は以前の形のものが16個(14個?)左右に取り付けられており、昔の趣ある風情を残しています。
ちなみに擬宝珠の中には「正保2年(1645年)」の銘が刻まれているものもあるといいます。
また秀吉時代に造られた橋の橋脚は昭和期まで川の中に残されていましたが、「鴨川洪水」を受けて川底が掘り下げられた際に撤去され、現在は京都国立博物館の庭に展示されています。
橋の周辺については、まず橋の東側には、京阪本線の「清水五条」駅があり、駅から東へと伸びる五条通は「五条坂」と呼ばれ、東山五条の大谷本廟や清水寺へ続いてます。
一方、橋の西詰の中央分離帯は公園のようになっており、その中央に京人形風の弁慶と牛若丸の石像が置かれ、また西詰北側にはかつて清照尼が御影堂扇と呼ばれる扇をつくった御影堂の跡があり、扇形の石碑と「扇塚」が建っています。