京都市東山区祇園町南側、八坂神社の東側にある円山公園の南、高台寺からねねの道を北へ進んだ北の突き当たりにある浄土宗系単立寺院。
1587年(天正15年)、「本能寺の変」で亡くなった織田信長(1534-1582)・織田信忠(1557-82)の父子の菩提を弔うため、第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命を受ける形で信忠が自刃した御池御所跡、現在の烏丸二条の南(京都国際マンガミュージアム付近)に創建したのがはじまり。
開山は信長の帰依を受けていたといい日蓮宗との安土宗論で知られる浄土宗の僧・貞安(ていあん 1539-1615)。
そして寺名の「大雲院」は信忠の法名「大雲院殿三品羽仙厳大居士」にちなんだものです。
その後豊臣秀吉(1536-98)による京都市の都市改造計画に伴って同年中に四条寺町南、現在の下京区貞安前之町(四条河原町付近)に移るように命じられ、1590年(天正18年)頃に四条に移転したといわれています。
以来第107代・後陽成天皇の勅願所となり、日向国佐土原(さどわら)城城主・島津以久(ゆきひさ)の帰依を受けるなど天皇や大名からも厚く信仰を集めましたが、その後1788年(天明8年)の「天明の大火」や1864年(元治元年)の「禁門の変」にともな「元治の大火」などで伽藍の焼失が相次ぎます。
その後、明治初期に再建されたものの、1889年(明治22年)には「第1回京都市議会」の会場として使用されるなどしましたが、四条河原町付近が繁華街化したのに伴って都会の喧騒から離れるために移転を考えるようになり、店舗の増床を考えていた髙島屋京都店との間で土地の等価交換が行われることが決まり、これを受けて1973年(昭和48年)4月、高島屋が所有していた東山区の大倉喜八郎旧邸の地に再移転され現在に至っています。
本堂裏にある「祇園閣」は大雲院の移転前からあった建物で、大成建設やホテルオークラなどで知られる大倉財閥の創始者・大倉喜八郎が別荘の敷地の一角に、1928年(昭和3年)の御大典記念に「祇園祭」の壮観を常に披露したいと、祇園祭の鉾の外観を模して造らせたといわれており、高さ約36m、3階建てで最上階からは京都市街が一望でき、八坂の塔とともに東山のランドマークタワーとして人々から親しまれています。
また境内の墓地には信長父子の供養塔のほか、石川五右衛門の墓もありますが、これは処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際に貞安が引導を渡した縁によるものだといいます。
大雲院は通常非公開の寺院ですが、「京の夏の旅」を中心に何年に1度かのペースで特別公開されており、公開期間中は本堂のほか祇園閣の内部や最上階からの景色を眺めることもできるため、京都好きはもちろん、歴史や寺社仏閣好きの人々にとっては貴重な機会となっています。