京都市北区紫野大徳寺町、臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の境内北側、主要伽藍のうち法堂の北西あたりから西へと伸びる参道に南面して建つ大徳寺の塔頭寺院。
本尊は織田信長坐像で、戦国大名・織田信長(おだのぶなが 1534-82)の菩提寺として知られる寺院です。
戦国時代の1582年(天正10年)、明智光秀が起こした「本能寺の変」で織田信長がその生涯を閉じると、信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし 1537-98)は、有名な中国大返しを行って京都に戻り、天下分け目の天王山「山崎の戦い」で光秀を破って一躍信長の後継者に名乗りを挙げます。
そして信長の後継者として認められることを望んだ秀吉は、本能寺の変の100日後の10月10日に信長の四男で秀吉の養子・羽柴秀勝を喪主として大徳寺にて大葬礼を執り行うとともに、翌1583年(天正11年)、信長の一周忌を迎えるにあたってその菩提を弔うため、千利休参禅の師として知られる大徳寺117世・古渓宗陳(こけいそうちん 1532-97)を開山として建立したのが当院のはじまりです。
この点、創建にあたっては信長の遺骸は発見されなかったことから、信長の木像が香木を使って2体造られ、1体は創建に先立って行われた大葬礼の際に棺に入れて荼毘に付され、もう1体が本尊として総見院に安置されることとなり、また寺名については信長が生前より自身の法名として定めていた「総見院殿贈大相国一品泰厳大居士」にちなんで命名されたもので、「総見」とは全てを見通すという意味だといいます。
創建当時は寺勢は大いに隆盛し、広大な境内には豪壮な堂塔が立ち並んでいたといいますが、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により多くの堂塔伽藍や宝物などが失われて荒廃。
その後は大徳寺の修禅専門道場および大徳寺管長の住居とされていましたが、大正時代に入ると有志によって多くの寄付が集められ、1928年(昭和3年)に本堂が再興され、更に1961年(昭和36年)の信長380年忌の際に廃仏毀釈の難から逃れるため本山である大徳寺に避難されていた秀吉奉納の等身大の木造・織田信長坐像が再び本堂に迎えられ、現在に至っています。
境内にはその他に創建当時から残るものとして「正門」および「親子塀」と呼ばれる二重構造の土塀、信長の家臣・堀秀政の寄進による「鐘楼」があるほか、その他の見どころとして趣の異なる3つの茶室や戦国武将・加藤清正が朝鮮半島から持ち帰り朝鮮石を掘り抜いて造られた「掘り抜き井戸」、秀吉がこよなく愛したと伝わり、日本最古の胡蝶侘助とされる樹齢約400年の「侘助椿(わびすけつばき)」、そして境内の墓地には信長をはじめとする一族の墓があり、創建以来、6月2日の信長の年忌には一山総出で盛大な法要が営まれています。
通常非公開の寺院で普段は拝観謝絶の立て札が掲げられていますが、春と秋に開催される特別公開の際に拝観をすることが可能となっています。