京都府舞鶴市西舞鶴にある、戦国から江戸期にかけての平城で、別名は舞鶴城(ぶがくじょう)。
戦国時代の1579年(天正7年)、織田信長の命により守護大名・一色義道を滅ぼし丹後国を平定した細川藤孝(幽斎)・忠興親子は、翌1580年(天正8年)に信長から丹後12万石を与えられ、田辺の地に新しく「田辺城」を築くこととなりました。
建てられた城はその形が鶴が舞う姿に似ていることから「舞鶴城」の別名を持ち、現在の「舞鶴」の地名はこの田辺城の別称に由来するものといわれています。
以後西舞鶴の地は細川氏の築いた城下町・田辺として発展。
城の方も江戸時代は京極・牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在となりました。
この点、1600年(慶長5年)の「関ヶ原合戦」の前哨戦では、細川氏は家康方(東軍)に味方しますが、嫡男・忠興が家康軍と共に会津へ向かう中、留守を預かった幽斎はわずか500の兵でこの城に籠城。
約2ヶ月(52日余り)もの間、西軍・石田三成方の1万5千の兵に城を囲まれ続けますが、後陽成天皇の勅命で包囲を解き城を退去したというのは有名な話です。
これは幽斎が「古今伝授」を伝える唯一の人物であったからだといわれています。
その後、細川氏は戦後の論功行賞で豊前国中津33万石(40万石?)を与えられ、後に小倉城を築城。
その一方で京極高知が丹後一国12万3千石(6万石?)で入封しますが、本城を宮津城に定めて城を整備したことから、田辺城は一国一城令により破却されることとなります。
しかし京極高知が亡くなると嫡男・高広が宮津藩7万5千石、次男・高三が田辺藩(舞鶴藩)3万5千石、養子の高信が峰山藩1万3千石を相続することとなり、再び田辺城が整備されることとなりました。
1668年(寛文8年)には田辺藩京極氏が豊岡藩へ転封となり、代わりに牧野親成が京都役司代として3万5千石で入封し、そのまま幕末まで牧野氏が10代続くこととなりました。
江戸時代は北前船の寄港地で商港として発展しますが、明治維新に伴って1873年(明治6年)に廃城が決まり、城は取り壊されてしまいます。
もっとも現在も商人町の面影を今に残し、山沿いに形作られた寺町の景観も健在で、またかつての田辺城跡のうち、本丸および二の丸の一部が「舞鶴公園」として整備され、自由広場や子どもの広場なども設けられ、家族揃ってゆったり過ごせる市民の憩いの場となっています。
また城門や石垣などの復元も行われており、1940年(昭和15年)に公園入口に「彰古館」と呼ばれる二層櫓の隅櫓が復興。
更に濠はすべて埋め立てられていて存在しませんが、本来の外堀上には1992年(平成4年)には天守台石塁もある城門が復元され、現在は公園のシンボル的存在となっています。
その他にも城門の2階に幽斎ら歴代城主や田辺城とその城下町の歴史を紹介した「田辺城資料館」があるほか、彰古館には「糸井文庫」の錦絵資料を展示。また細川幽斎の古今伝授に名高い美しい日本庭園「心種園」などの見どころがあります。
また染井吉野(ソメイヨシノ)や枝垂桜など約100本の桜が咲き誇るお花見スポットして知られるほか、バラ園やツツジの名所としても知られています。