京都府舞鶴市朝代、愛宕山の東麓、JR西舞鶴駅前から西へ500m進んだ先の円隆寺の北隣に鎮座する神社で、現在も旧舞鶴町全域に氏子区域を持つ西舞鶴地区でも最大規模を誇る神社。
飛鳥時代、天武天皇の時代の672年(白鳳元年)に淡路島の日ノ少宮(ひのわかみや)(伊弉諾神宮)より国生みの神として知られる伊弉諾尊(イザナギノミコト)を勧請したのがはじまり。
この点、淡路島は伊弉諾尊が天照大神(アマテラスオオミカミ)・月読命(ツクヨミノミコト)・素戔嗚尊(スサノオノミコト)の三貴神を生み、それぞれの神に天上界である高天原・夜之食国・海原を委任した後に幽宮(かくりのみや)という宮殿を建てて隠居した場所として知られていて、初めての夫婦神として夫婦円満・縁結び・子授け、また罪穢を祓う厄除けなどのご神徳などで知られている神様です。
その後については江戸中期の1732年(享保17年)の大火により記録を消失しており資料が乏しいといいますが、江戸期には城下町・田辺の産土神として舞鶴の地を治めた田辺藩の歴代藩主からも崇敬が篤く、神輿・鳥居などの奉納が続いたといい、士民を挙げての秋の祭礼は大いに賑わったと伝えられていて、また江戸後期に編纂された「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」には「田辺朝代社同大河社」として丹後国十一社の一つにも数えられていました。
そして1928年(昭和3年)には府社に昇格し、「朝の参りは朝代さんよ」「日毎夜毎の朝代参り」などと民謡にも唄われていたといいます。
現在の本殿は1732年(享保17年)の大火によって失われた後、1739(元文9年)に再建されたもので、舞鶴市指定文化財に指定。
また境内には江戸や明治時代の狛犬がいくつも残っていて、人々の信仰の深さが窺い知れます。
例祭は5月3日に「春季例大祭」、11月3日に「秋季例大祭」を開催。
この点、1654年(承応3年)より京都所司代を務め、1668年(寛文8年)に京極氏に代わって摂津・河内国から丹後田辺へ転封となり、牧野田辺藩の初代藩主となった牧野親成(まきのちかしげ 1607-77)は厳正な政策を行って藩政の基礎固めに専念する一方で、神社仏閣の祭礼行事を大いに奨励したといい、朝代神社においても秋季例大祭にて吉原から太刀振、平野屋から太神楽がそれぞれ奉納されるほか、各町から芸屋台や太鼓やぐらが神賑として出されるのが通例だといい、JR西舞鶴駅内には江戸後期に当社の祭礼に使われたという芸屋台や祭礼絵巻などが展示されていて、往時を偲ぶことができます。。
現在はこれら秋季例大祭の行事のうち「吉原の太刀振」が4年に1度の間隔で奉納されており、舞鶴を代表する民族芸能・伝統行事の一つとして京都府登録無形文化財に指定されています。
これは「関ヶ原の戦い」における前哨戦となった田辺城籠城戦の際、西軍の大軍勢に包囲された細川幽斎の田辺城を守るために吉原の漁村の漁師たちが援護し、その功績によって戦後に細川氏によって吉原漁民に許されたという武道の型を伝えるものだといい、元々は東吉原地区のみの行事でしたが、子供が少なくなった現在では、昔太刀振りを経験したメンバーが作る「吉原太刀振り保存会」によって保存・運営されているといいます。