京都府舞鶴市紺屋、舞鶴市の中央部、西舞鶴市街地の西にある愛宕山の東麓にある禅宗寺院で曹洞宗の中本山。
末寺は34か寺(36ともするが今は30とも)を数え、丹後有数の歴史を誇り壮大な伽藍を有する寺院です。
山号はこの裏山の愛宕山を古代にはそう呼んだという天香山(あめのかぐやま)で、本尊は阿弥陀如来、薬師如来。
創建は不詳ですが、寺伝によれば565年(欽明天皇26年)に勅願により開かれ、麻呂子親王作の薬師如来を本尊とする「薬師寺」を前身とするといわれています。
これは貞和4年正月13日付の惟宗保音山林畠等寄進状案に「薬師寺分是者八幡宮の分」「慈音寺為薬師寺領之内」などと見え、八幡宮は桂林寺の鎮守で、慈音寺は塔頭となる寺であり、その関係が伺えるためです。
その後、1401年(応永8年)に丹波国村雲部(現在の兵庫県篠山市)の洞光寺第4世・竺翁雄山(ちくおうゆうせん)により曹洞宗に改められ、この時の寺号は「洞林寺(とうりんじ)」といい、最初は七日市の付近にあったといいます。
洞林寺から桂林寺への寺号の変更や現在地への移転の時期については明確ではないといいますが、1451年(宝徳3年)、当時の佐武ケ嶽城主・坂根修理亮が、父親である桂林院の菩提を弔うために堂宇を増築し、寺領30石を寄進するとともに寺号を「桂林寺」に改称したとする説もあるといわれています。
そして戦国時代には、田辺城を築いてこの地を治めた戦国武将・細川藤孝(幽斎)の保護を受けたことで知られ、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に際しては6世住持の大渓(たいけい)が弟子十数人を率いて城入りし田辺城に籠城した幽斎を支援しています。
この点、衆徒の働きは大きかったといわれており、その功績に対して細川家から仏涅槃図や梵鐘が寄進されています。
江戸時代に入ると歴代藩主である京極家や牧野家から庇護されて寺運は隆盛し、曹洞宗中本山として大きな影響力を持つようになり、「丹後国加佐郡旧語集」によると、桂林寺は寺領30石、境内1,700坪、末寺は34か寺を数え、寺観は、客殿・方丈・庫裡・衆寮・禅室・鐘楼・山門・経蔵・総門の諸堂宇を有したといいます。
現在においても本堂以下の伽藍を完備していますが、中でも中国風の総門が印象的です。
また寺の鎮守である「八幡社」の社頭に立つ八角形の石燈籠は、鎌倉後期の作で、全体的に重みがあり、丹後地方の石燈籠の特徴を示す代表的作例として国の重要美術品に認定されています。
この他にも前述の田辺城主・細川忠興による寄進の室町期作の絹本着色「仏涅槃図」および梵鐘が市文化財に指定。
また本堂を改修し本尊の阿弥陀如来像の隣に安置された十一面観音菩薩立像「大観音」は、京都市西京区の仏師・松本明慶が2010年(平成22年)春から4年以上かけて制作し、2014年(平成26年)10月に開眼された高さ約5mに及ぶ木造の観音像です。