京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺庄地、京都と奈良との間の美しい茶畑が広がることで知られる宇治田原の北側、滋賀県との県境に近い位置にある禅宗寺院。
正式名は「白華補陀落山観音妙智院禅定寺(びゃくげ ほだらくさん かんのんみょうちいん ぜんじょうじ)」で、創建当初は華厳宗の寺院でしたが、後に天台宗の寺院となり、現在は福井県の永平寺と神奈川県の總持寺を両大本山とする日本仏教宗派最大教団である曹洞宗に属する寺院です。
この点、禅定寺にある旧道は平安時代から旅人にとって日本の主要な道路の一つあった「東海道」に繋がっていたため、京都の山城国の宇治方面と近江国の瀬田や信楽方面を結ぶ近道として利用されいたといい、このことから「宇治田原越として先がけとなるお寺」と称されていたといいます。
そして元々寺院のあった場所は当時日本において一大勢力を築いていた藤原氏が、藤原道長、頼道父子の頃に宇治が知られるよりも前、それに先駆けて夏の別荘地としていた地域で、平安中期の991年(正暦2年)、道長の父にあたる藤原兼家の帰依を得た東大寺の学僧で第53代別当であった平崇(へいすう)が、東大寺の別院として創建したのがはじまりです。
造営にあたっては5年の歳月を費やしたと伝えられていて、またこの時期に造られた木造の仏像のいくつかは重要文化財にしていされています。
その後、平安末期の1071年(延久3年)には現在世界遺産として知られる平等院の末寺となり、藤原氏の庇護によって「岨山一千町歩」などの広大な寺領を有していましたが、中世以降は戦乱による焼失などにより衰退を余儀なくされ境内の荒廃が進んでいたといいます。
そして江戸中期の1680年(延宝8年)、加賀国大乗寺の中興として知られる月舟宗胡(げっしゅうそうこ 1618-96)が、禅師に深く帰依していた加賀藩の家老・本多安房守政長の経済的援助を得て、諸堂を建立するとともに庭園など境内の再整備を行い、曹洞宗寺院として復興され現在に至っています。
現在の境内は庭園と5つの堂、僧房、そして宝物殿で構成されていますが、月舟によって再興された当時の様子がよく残されており、その中でも「本堂(客殿)」は現在も町内で最大の茅葺き屋根を持つ建築物として知られています。
その他にも「宝物殿」に安置されている重要文化財や町の文化財に指定されている本尊「木造十一面観音立像」や「日光・月光菩薩立像」をはじめとする十体の仏像や、境内にある町指定文化財の「禅定寺五輪塔」や、本堂裏の防災壁に開創千年を記念して描かれた現代の巨大壁画「大涅槃図」などが見どころです。
また1991年3月9日には「京都府歴史的自然環境保全地域」にも指定されているほか、寺宝としては京都府総合資料館に禅定寺について記載され、中世の研究資料としても貴重な重要文化財「禅定寺文書」が保管されているといいます。