京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺粽谷、京都市の南に位置する宇治田原町と滋賀県大津市曽束町との境界、禅定寺峠の傍らに鎮座する猿丸大夫(さるまるだゆう 生没年不詳)を祭神として祀る神社。
猿丸大夫については、その出生や来歴などの伝記は未詳とされていますが、奈良時代末期から平安初期にかけて活躍した伝説的歌人で、その正体については山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王、第40第・天武天皇の皇子・弓削皇子(ゆげのみこ ?-699)、万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ 662-710)の世を忍ぶ名など、諸説があるといいます。
平安前期の勅撰和歌集「古今和歌集」の「真名序」にその名がみえ、平安中期に藤原公任により「三十六歌仙」の一人に数えられ、更にその後「古今和歌集」に詠み人知らずとして収録されている「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」の歌が有名な藤原定家の「小倉百人一首」の第5番に猿丸大夫の作として撰ばれ、広く世に知られるようになりました。
この猿丸大夫の伝説は広く日本各地にあり、兵庫県芦屋、大阪堺、長野県戸隠、石川県金沢、新潟県東蒲原、福島県南会津などに屋敷跡や子孫と称する者がいると伝えられています。
当社は大夫晩年隠棲の土地とも伝えられていて、更に鎌倉前期の歌人・鴨長明の「無名抄」によれば、平安末期には山城国綴喜郡曾束荘、現在の滋賀県大津市大石曽束町に猿丸大夫の墓があったとされていますが、古くより大石曽束と禅定寺との間では境界論争がよく行われたため、その後、江戸初期に現在地にほぼ近い場所に遷し祀るとともに、その霊廟に神社を創建したのが当社のはじまりといい、神社に伝わる1645年(正保2年)の絵馬にも禅定寺地区の氏子中が社殿を建立したと記されているといいます。
古来より歌道の神として崇められるその徳を慕って多くの文人墨客がこの地を尋ねたといい、また近年に入ってからは瘤・でき物や身体の腫物の病気を癒す霊験があるとして「こぶ取りの神」「病気平癒・がん封じ」のご利益のある神社として京都・南山城地方を中心に京阪神や遠方からも広く参詣に訪れるようになり、本殿の横には病気が治った人々がそのお礼として奉納したという木のコブが多く置かれています。
その他にも境内には本殿前の両脇を守るように狛猿が鎮座するほか、表参道には仲睦まじそうな自然岩の「夫婦猿」など、猿丸太夫にちなんだ猿に意匠が数多く見られ、また一刀彫の身代り猿や猿みくじ、猿顔絵馬などの授与も行われています。
「猿丸さん」の愛称で親しまれ、毎月13日には家内安全・無病息災、交通安全、病気平癒、厄除、心願成就などを祈願して「月次祭」が行われるほか、境内前の駐車場では地元の特産品などを販売する縁日「猿丸市」が開かれ、当日は維中前バス停から猿丸神社行きの臨時バス便も運行され大勢の参拝客で賑わいます。
その他にも春の4月13日と秋の9月13日には大祭、また6月13日と12月13日には「火焚神事」が行われるほか、近年になって寄付によりモミジが植栽され、紅葉の隠れた名所としても知られるようになっていて、11月から徐々に色づき猿丸太夫の「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋はかなしき」の和歌にふさわしい見事な紅葉が見られます。