概要
1889年(明治22年)の町村制の施行により田原村・宇治田原村の2か村が発足
1956年(昭和31年)、田原村と宇治田原村が合併し、宇治田原町となる
主なスポット
- 寺社
- その他
- ショッピング
1889年(明治22年)の町村制の施行により田原村・宇治田原村の2か村が発足
1956年(昭和31年)、田原村と宇治田原村が合併し、宇治田原町となる
町の西部
郷ノ口、南、荒木、久世郡の高尾の4か村および立川村の一部[贄田]が合併
1873年(明治6年)に開国した荒木校「維孝館」の校門
かつての城下町であり、風情ある蔵や古民家・茶問屋・石碑が点在
永谷宗円の肖像画や100年前の茶畑写真など
田原川沿いに整備された遊歩道で、散策やジョギングに活用され、住民の憩いの場
4月には約300本の桜が開花し、町内随一の桜の名所
北部
町の東部
岩山、立川[贄田を除く]、禅定寺、湯屋谷、奥山田の5か村が合併
3階にお茶の資料室
「柿屋」は宇治田原特産の干し柿「古老柿(ころがき)」を作るための棚で、11月上旬頃から古老柿が完成して柿屋が解体される12月下旬頃の期間のみ観ることができる光景
収穫の終わった田の中で組み立てられ、その作業はすべて農家の手作業で、丸木の骨組みに藁で屋根の葺かれたいくつもの柿屋が立ち並ぶ姿は宇治田原を代表する初冬の風物詩
町内各地で見ることができるが、とりわけ立川の大道寺地区には、町内で最大規模のものも含めて狭い範囲に多くの柿屋が集中しており、見応えがある
藤原通憲(ふじわらのみちのり 1106-60)は平安後期の公卿・学者で、出家して円空、後に信西入道(しんぜい)と称し、学才に優れた人物で、妻が後白河天皇の乳母であった関係から、僧侶の身でありながらその即位と同時に腹心として活躍
1156年の「保元の乱」では源義朝の意見を容れて崇徳上皇方を破り、後白河天皇方に勝利をもたらし、その後の後白河院成下でも平清盛と結んで権謀術数の限りを尽くしたが、同じく院近臣の藤原信頼と対立すると1159年の「平治の乱」で源義朝と結んだ信頼に敗れ、領地のある宇治田原に逃れるも捕らえられて斬首された
その首は持ち帰った領民によりこの塚に葬られたといい、町の史跡に指定されている
秋には向かいの大道神社とともに紅葉の隠れた名所として知られている
鷲峰山登山道沿い鎮座する神社で、元は「天満宮」と称し中世にはこの地に存在していたという
現在の本殿は江戸中期の1680年(延宝8年)に建立されたもので町指定文化財
向かいにある信西入道塚とともに秋は隠れた紅葉の名所
元々の町庁舎は町を横断する主要道路である国道307号にほど近い荒木の地に建設され、町制施行の3年後の1959年(昭和34年)11月の竣工以来60年以上にわたって親しまれた
しかし朝夕の通勤時間帯の交通渋滞の問題や大雨による土砂災害時のう回路としての必要性などから、町では国道307号のバイパスとしての新たな都市計画道路「宇治田原山手線」の整備を進めており、それに伴って役場機能もこの道路に沿って新たな市街地形成をめざす「新都市創造ゾーン」に移転されることとなり、2020年7月に旧庁舎から南東へ約1.4kmの場所で業務を開始している
湯屋谷地域は「やんたん」と呼ばれ、江戸時代に永谷宗円が日本緑茶の製法を編み出した歴史を持つ日本緑茶発祥の地
現在も山あいの細い谷筋には茶問屋や茶農家が軒を連ねていて、日本遺産にも認定されている
その湯屋谷地域を盛り上げる観光交流拠点として2018年6月に製茶工場跡をリノベーションしてオープンした施設で、地域活性化に取り組む住民の手で運営されている
地元民ならではの観光案内や見どころ紹介、お茶に関する体験プログラム、茶農家自慢のお茶をはじめとした地場産品等の販売や喫茶コーナーなどのほか、会議やお茶会、個展などに使用できる施設の貸出も行っている
1954年(昭和29年)に、元々この地にあった大神宮社(だいじんぐうしゃ)に永谷宗円を「茶宗明神」として合祀して生まれた神社
茶祖の功績を讃える全国の茶業者の崇敬を集めるのみならず、境内を取り囲む森の木々と苔むす石垣とが神秘的な空気を醸し出しており、また秋は紅葉も見事