京都市北区紫竹下竹殿町、上賀茂神社の南西、新大宮商店街の北詰の北山大宮交差点を少し北に進んだ住宅街に鎮座する上賀茂神社の境外摂社(第8摂社)。
祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は賀茂氏の始祖であり、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の祭神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の祖父にあたり、「山城国風土記」によると、神武天皇の東征の際に「八咫烏(やたがらす)」と化して道案内を務め、皇軍を大和へ導いたことで知られています。
そしてその功績によってこの地を賜り、一族を率いて移住し、国土の開拓・開発に努めたといい、当社の付近にあったとされる御祭神の墳墓を祀るために創建されたとの伝承も残されています。
この点、創建の詳しい経緯は不明ですが、賀茂氏が大和国の葛城から山城国へと移動していく際に賀茂県主族の祖神として移住地に祀った社の一つと考えられ、大和から南山城へ入った加茂氏が最初の拠点に祀った「岡田鴨神社」、木津川を北上し久我(こが)の地に進出した時に祀ったのが伏見区にある「久我神社(こがじんじゃ)」であり、さらに北上して大宮のこの地に祀ったのが当社「久我神社(くがじんじゃ)」であるといいます。
記録上の初見は平安初期859年(貞観元年)の「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)」で、その後平安中期の927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧「延喜式神名式(延喜式神名帳)」にも愛宕郡「久我神社」として記載されています。
その後は上賀茂神社(賀茂別雷神社)の発展とともに平安後期から賀茂社の末社に列したと推測され、鎌倉期以降は「氏神社」と称し、賀茂氏の氏神としての性格は薄れ、旧大宮村の住民の社として信仰されるようになりました。
更に近世には当社は立派な宮という意味から「大宮」と称されていたといい、当時は森に囲まれた広大な神域を有していて「大宮の森」と呼ばれていたといいます。
現在の境内は当時に比べればかなり縮小しているものの、当時の面影を残す欅(ケヤキ)の巨木が残っており、1987年(昭和62年)5月1日には京都市の史跡にも指定されているほか、周辺一帯の地名「大宮〇〇町」にその名残をとどめています。
また京都の主要な南北の通りである「大宮通」は、近世まで「大宮」と称されていた当社から定められたと伝えられています。
明治維新後の1872年(明治5年)に社名を「久我神社」と改め、現在では祭神が八咫烏となって神武天皇の東征の道案内をした故事により「航空・交通安全」の守り神として広く信仰されています。
行事としては毎年4月1日の「春祭」と11月1日に行われる「例祭 本殿祭」において上賀茂神社の神馬が本殿・拝殿の周囲を3周回る「牽馬の儀(ひきうまのぎ)」が知られているほか、11月3日の「神幸祭」では大宮・紫竹の氏子町内を大神輿・中神輿・子供神輿の3基の神輿が巡行し、多くの見物客で賑わいます。