京都市北区紫竹西南町、大徳寺の北、大宮通の北大路から北山までを通る新大宮商店街の西側に鎮座する神社。
「總神社天満宮」とも呼ばれ、上賀茂神社境外三十八社の一つに数えられる神社です。
創建の詳細は不明なものの、白鳳年間(645-710)に始まったといわれている古い歴史を持つ神社で、また平安初期の820年(弘仁11年)に賀茂社の禰宜・男牀が神託により現在の上賀茂神社バス駐車場付近に建てたという上賀茂神社の神宮寺・聖神寺の鎮守社とされ、社僧が学問の向上を願って崇敬したといわれています。
祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)の子・天穂日命(あめのほひのみこと)および八幡大神、天満大神、源義朝神霊の4柱。
「天穂日命」は天照大神(あまてらすおおみかみ)の子と須佐之男命(すさのおのみこと)が誓約をした際、天照大神の珠から生まれた五男神の中の一神で、天孫降臨に先立って天界=高天原(たかまがはら)から地上界=葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するため出雲の国津神・大国主神(おおくにぬしのかみ)を説得するように派遣されるも、そのまま大国主神に味方をして3年の間復命せず、後に国譲りの条件として建てられた「天日隅宮(あめのひすみのみや)=出雲大社」の祭主を命じられ、大和朝廷に服属後は国造となって同地の祭祀を司った出雲の豪族・出雲国造(いずものくにのみやつこ)の祖神となったとされています。
「八幡大神」は全国の八幡宮に祀られている神様で、応神天皇と同一とされ、清和源氏や桓武平氏をはじめとする全国の武士たちから武運の神(武神)として崇敬を集めています。
鎮座地である紫竹の地は八幡神を篤く崇敬していた源氏との縁の深い土地で、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)やその弟・源義経(みなもとのよしつね)の父・源義朝(みなもとのよしとも 1123-60)の別邸があったと伝えられており、合祀された経緯は不明なものの源義朝の御霊が当社の祭神の1柱として祀られています。
そして義朝の妾であった常磐御前が牛若丸、後の源義経をこの地で出産したとも伝えられており、その縁から古図ではこの周辺は「常磐の森」と記されているそうです。
更に「天満大神」についてもも合祀された経緯は不明ですが、古くより菅原氏が当社の宮守をしてきたことから「菅宿坊天神」と称したといい、後に「天神」として全国の天満宮に祀られることとなる菅原道真(すがわらみちざね 845-903)が筑紫国・大宰府へ左遷される際には、巫女として奉仕していたという叔母に別れを告げるために、当社に一泊したとも伝えられています。
行事としては毎年10月23日前後の日曜日「例祭」が開催されるほか、6月30日の「夏越の祓」の日には茅の輪が設置されて茅の輪くぐりができるほか、毎年4月第2日曜に行われる今宮神社を中心に行われる京都三大奇祭の一つである「やすらい祭」においては、上野と川上とニ社のやすらいが、当社を参拝後に今宮神社へと向かうのが習わしとなっています。