京都市伏見区久我森の宮町、京都市南西部の「久我(こが)」の地に鎮座する神社。
久我の地は古くは中世貴族の久我家とは別の古代豪族の久我氏(こがし)、その後は久我氏に代わってこの地に進出してきた賀茂氏の山背国(山城国)進出の一拠点とされ、いずれも自らの祖先神を祀っていたと考えられています。
この点、当社の祭神は賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)と同神の建角身命(たけつぬみのみこと)、玉依比賣命(たまよりひめのみこと)、別雷神(わけいかづちのかみ)の3柱ですが、賀茂氏の始祖である建角身命とその娘神・玉依比賣命はともに下鴨神社の祭神、また孫にあたる賀茂別雷命は上賀茂神社の祭神という関係にあります。
「山城国風土記」によると、このうち建角身命は日向国の高千穂の峰に天降られた神で、初代・神武天皇の東征の際にサッカー日本代表のシンボルマークにもなっていることでも有名な「八咫烏(やたがらす)」と化して熊野から大和への難路の道案内を務め、皇軍を大和へ導いたことで知られています。
大和平定の後は大和国・葛城山の峰にとどまった後、大和から南山城へ入りが最初の拠点に祀った木津川市の「岡田鴨神社」、木津川を北上し久我(こが)の地に進出した時に祀ったのが伏見区久我にある当社「久我神社(こがじんじゃ)」であり、さらに北上して大宮の地に「久我神社(くがじんじゃ)」を、そして山城国・賀茂の現在地(現在の上賀茂神社と下鴨神社)に最終的に落ち着くこととなりますが、当社も賀茂氏が大和国の葛城から山城国へと移動していく際に賀茂県主族の祖神として各移住地に祀った社の一つと考えられています。
そして久我(こが)の地は、当地におられた玉依比賣命に西の方から丹塗矢(にぬりや)が飛んできて当たり、身ごもられ、この地で別雷神が生まれたと伝えられていて、賀茂伝説のふるさとの地でもあるといいます。
社伝によれば、784年(延暦3年)の第50代・桓武天皇による「長岡京」への遷都に先立ち王城の艮角(うしとらすみ)=北東の守護神として祀られたのがはじまりとも伝えられていて、平安中期927年(延長5年)にまとめられた当時官社に指定されていた全国の神社一覧「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」にも「久何神社」として記載のある「延喜式内社」に比定され、京都における最古の神社の一つと考えられています。
また久我の地は鴨川・桂川・西高瀬川の三川が合流する地点の右岸、長岡京跡の東端に位置し、河川に沿って斜めに通る古道「久我畷(なわて)」は北は桂川を経て鳥羽へ、南は山崎につながる重要な道路の一つで、平安後期以降は村上源氏の一流である久我家の荘園があり別荘「久我殿」を構えた場所で、古地図などには「北殿」や「馬場」などのこれに関連した字名が残り、跡地には近世に建てられた寺社も多く見られます。
この点、当社も江戸初期までは「願王寺(がんのうじ)」という神宮寺が置かれて社僧が祭祀を司り、寺が断絶した後も村の寺が年番を作って守護し続けてきたといい、そのような由来もあり今日もなお神仏習合時代を彷彿とさせる貴重な神事も残されているといいます。
また古来より当社の森は「久我の杜」と称され、久我の渡りとともに藤原光俊の和歌の中でも「木々にはふ 蔦つた紅葉(もみぢ)せり 久我の杜 淀の渡りや 時雨しつらむ」と詠まれるなど、非常に名高く、古来より「鴨森大明神」、江戸時代には「森大明神」とも呼ばれ、久我の郷人をはじめ諸人の平和安全・方除け発展を守護する神として信仰を集めてきました。
現在は周辺が宅地化される中にあって久我の杜の名残りである神社の緑は貴重な存在となっており、中でも境内にある「クスノキ」の巨木は2001年(平成13年)に「京都市の保存樹」にも指定されています。
現在の本殿は江戸後期の1784年(天明4年)の再建で、三間社流造で播磨の大工の関与が認められる比較的規模の大きな社殿となっています。
造営棟札の他に普請願書の控えや板製の建地割図など造営に関する史料がよく残るなど建築年代が明らかであるとともに、保存状態も良好であることから、2008年(平成20年)4月1日に「京都市登録有形文化財」に登録されています。