京都市山科区安朱稲荷山町、毘沙門堂の西側の山間にある天台宗寺院で、毘沙門堂の塔頭寺院。
正式名称は「護法山双林院」ですが、本尊に大聖歓喜天を祀ることから「山科聖天」と通称されています。
江戸初期の1665年(寛文5年)、後陽成天皇の勅により徳川家から安祥寺の寺領の一部を与えられ、天台宗の僧・天海・公海によって毘沙門堂が再建された際、公海により毘沙門堂門跡の山内寺院として創建されたのがはじまり。
当初は毘沙門堂に祀られていた近江国・西明寺より勧請された「光坊の弥陀」との別称がある「阿弥陀如来像藤原時代作()」を譲り受けて本尊としましたが、明治維新直後の1868年(明治元年)に天台座主であった公遵法親王の念持仏・大聖歓喜天を祀る聖天堂が新たに建立されることとなり、それを機に本尊を阿弥陀如来から大聖歓喜天に変更し現在に至っています。
この点「聖天」とはは仏教の守護神である天部(毘沙門天・帝釈天・吉祥天などの天界に住む神々の総称)の一つである「歓喜天」の別名で、正式には「大聖歓喜大自在天(だいしょうかんぎだいじざいてん)」。
原型は古代インド神話において最高神・シヴァ神の息子で象を神格した「ガネーシャ神」と言われ、ガネーシャ神は元々は障害を司る神で人々の事業を妨害する魔王として恐れられる存在でしたが、やがて障害を除いて幸福をもたらす神として広く信仰されるようになりました。
ヒンドゥー教から仏教に取り入れられる際にも悪神が十一面観世音菩薩によって善神に改心し、仏教を守護し財運と福運をもたらす天部の神となり、日本各地の寺院で祀られるようになりました。
象頭人身(頭が象で体は人間)の姿で単身像と双身像があり、このうち双身像は男天と女天が相抱擁している姿で、夫婦和合・安産・子授けの神様として信仰されています。
そしてそんな聖天さんのシンボルとなっており、聖天を祀る寺院の境内で意匠としてよく見かけるのが「巾着袋」と「大根」ですが、大根は夫婦和合や縁結び、巾着は砂金袋(宝袋)で商売繁盛のご利益を現わしているといいます。
またその姿を見ると良くないことが起きるという言い伝えもあり、一般的にはその姿は簡単に見ることが出来ないよう多くは厨子などに安置され、秘仏として扱われており一般に公開されることは多くないといいます。
そして「百味供養」といわれるようにたくさんの供物をささげると多くのご利益が得られるともいわれ、平時より供物は欠かさず、また御縁日である毎月1日と16日には特別な供物が供えられるといいます。
中でも歓喜天の好物として有名なのが聖天さんのシンボルとして知られる「大根」であり、また仏教と共に遣唐使が中国から伝えて以来千年の昔より形を変えずに伝えられているという「歓喜団(かんきてん)」というお菓子だといいます。
なお歓喜天が祀られている寺院は「○○聖天」と通称されることが多く、京都府内では京都市山科区の双林院(山科聖天)の他にも京都市東山区の香雪院(東山聖天)、上京区の雨宝院(西陣聖天)、乙訓郡大山崎町の観音寺(山崎聖天)、木津川市の光明山聖法院(銭司聖天)があります。
当寺の本尊である「大聖歓喜天像」は象頭人身(頭は象、首から下は人間の姿)で二体が向かい合って抱擁している双身像で、夫婦円満や子授けなどの御利益があるとされ、秘仏として大切に厨子に納められています。
また堂内には本尊の他にも有名な戦国大名・武田信玄から奉納されたといういわれを持つ歓喜天など、70体近い歓喜天像が合祀されており、本尊とともにあらゆる望みを叶えてくれる霊験あらたかな「山科の聖天さん」として広く信仰を集めています。
更に聖天堂以外にも境内にはあらゆる災いから身を守ってくれるという不動明王像をはじめ、珍しい由緒を持つ多くの仏像が安置されています。
このうち不動堂の本尊「不動明王」は1883年(明治16年)に比叡山の千日回峰行者であった第24代の住職が比叡山の無動寺より勧請されたもので、脇侍には四大忿怒像を安置し五大明王が構成されています。
不動明王像は愛染明王や平安期以前の作という馬頭観音のほか、織田信長による「比叡山焼き討ち」の際に損傷したという仏像の部材を300以上を集めて造られているといい、特に頭部にある如来の螺髪(らはつ)の頂点には楊枝状の部材が約100本納められており、他に例のない珍しい仏像です。
また不動堂についても堂内で大護摩が焚けるという特殊な構造になっているといいます。
そして阿弥陀堂の本尊「阿弥陀如来」については、湖東三山の一つ滋賀県の西明寺より勧請されたもので平安中期の作といわれ、この他にも不動堂の右奥の崖下にある「不動の滝」のそばには石造の「お瀧不動尊」が祀られており、合わせて参拝するのがおすすめです。
この他にも春は桜、秋は紅葉が美しく、とりわけ秋には隣接する毘沙門堂と同様に風情ある散り紅葉を楽しむことができる隠れた名所です。