京都市山科区御陵平林町、山科駅の北、琵琶湖第一疏水に架かる安祥寺橋を渡ってすぐの所にある高野山真言宗の寺院。
山号は吉祥山、本尊は十一面観音菩薩。
平安前期の848年(嘉祥元年)、第54代・仁明天皇(みんみょうてんのう 808-50)の皇后で第55代・文徳天皇(もんとくてんのう 826-58)の生母・藤原順子(ふじわらののぶこ 809-71)の発願により、弘法大師空海の孫弟子である入唐留学僧・恵運(えうん 798-869)が創建したのがはじまり。
順子は嵯峨天皇の信任を得て藤原北家隆盛の基礎を築いたことで知られる藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ 775-826)の娘で、冬嗣の後を継ぎ866年の「応天門の変」で政敵であった伴・紀両氏のを没落に追い込むとともに人臣最初の摂政に就任し、藤原氏による摂関政治を確立したとされる藤原良房(ふじわらのよしふさ 804-72)の妹にあたる女性です。
そして855年(斉衡2年)には天皇の母である順子ゆかりの寺であることから定額寺とされ、867年(貞観9年)に恵運が作成した「安祥寺伽藍縁起資材帳」によれば、創建当初は現在の醍醐寺のように安祥寺山の「山上(上寺)」と「山下(下寺)」に大伽藍を有していたとの記載が見られ、塔頭の坊舎700余を有し、かつては毘沙門堂も安祥寺の境内であったほど広大な寺域を有していたといいます。
しかし順子の没後は朝廷の庇護を失い次第に衰退し、平安後期に真言小野流三派の安祥寺流の祖・宗意(そうい 1074-1148)によっていったんは中興されますが、室町時代に「応仁の乱」で上下両寺ともども焼失。
江戸時代に入り50丁4辺の山林および境内地復旧の令を受けて再建され、その寺域がほぼ現在の寺院の基となっているといい、上寺は再建されずに廃絶。
その後も幾度かの火災に遭い、1906年(明治39年)には多宝塔が焼失、現在は江戸時代後期に再建された本堂(観音堂)、地蔵堂、大師堂や青龍社、弁天社、鐘楼堂などが残るのみとなっています。
寺宝としては本堂に国の重要文化財にも指定されている本尊・十一面観音立像や四天王立像、地蔵堂に地蔵菩薩坐像、大師堂に弘法大師像および恵運僧都坐像などが安置されていますが、それ以外にも現在境内ではその姿を見ることはできないものの、京都国立博物館に寄託されている国宝・五智如来坐像や、現在は東寺観智院に移され観智院本堂の本尊となっている重文・五大虚空蔵菩薩像も元々は恵運が請来し安祥寺にもたらされたものです。
これらの中でもとりわけ注目なのは国宝「木造五智如来坐像」で、五智如来とは大日如来に備わる5つの智恵を5体の仏像で表したものですが、安祥寺の五智如来は平安初期の851~859年頃に上寺の礼仏堂の本尊として造られたもので、その後再建された安祥寺の多宝塔の本尊として安置されていましたが、多宝塔が焼失した1906年(明治39年)以前に京都国立博物館に寄託されていたために難を逃れ現在にまでその姿が伝えられています。
重厚ながら単純化された造形に、密教彫刻の特徴がよく表れており、また5体が揃う国内最古にして唯一の平安初期の五智如来坐像としてその学術的・歴史的価値が認められ、長らく国の文化財に指定された後、2019年(令和元年)に国宝とされています。
通常は非公開の寺院で長らくその境内すら参拝することができませんでしたが、2019年(令和元年)の「春の特別公開」にて初めての公開が行われて大いに注目を集めた後、同年秋の「秋の特別公開」でも特別公開が行われています。
また門前の「琵琶湖疏水(山科疏水)」沿いは桜の名所として知られるほか、2018年(平成30年)の春から復活した大津から山科を経由して蹴上までを結ぶ観光船「びわ湖疏水船」の運航ルートにもなっています。