京都市山科区安朱稲荷山(あんしゅいなりやま)町、山科区の北端、山科盆地を見降ろす安祥寺(あんしょうじ)山の山腹に位置する天台宗(延暦寺派)の門跡寺院。
妙法院、三千院、青蓮院、そして曼殊院とともに天台宗五箇室門跡(天台五門跡)の一つ。
正式には「護法山安国院出雲寺(いずもでら)」ですが、本尊に身丈2寸2分、天台宗の宗祖で比叡山を開いた伝教大師最澄の自刻で、延暦寺根本中堂のご本尊薬師如来の余材をもって刻まれたと伝わる毘沙門天を祀ることから「毘沙門堂」「山科毘沙門天」と呼ばれ親しまれています。
寺伝によれば703(大宝3年)、文武(もんむ)天皇の勅願により行基が前身の「出雲寺(いづもじ)」を開山。
また延暦年間(782~806)に、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が自作の毘沙門天像を草庵に安置したのがはじまりともいわれています。
「出雲寺」は現在の上京区、京都御所の北にある相国寺の更に北側、上御霊神社付近にあったと推定され、一帯には現在も「出雲路」の地名が残っています。
付近からは奈良前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことは確実といわれ、平安末期には荒廃していたことが「今昔物語集」などに記述されています。
鎌倉初期の1195年(建久6年)、平親範(円智)(たいらのちかのり)が京都洛北の出雲路(いずもじ)に仏堂を建て、平氏ゆかりの廃絶した平等寺(葛原親王創建)、尊重(そんじゆう)寺(平親信建立)、護法寺(平範家創建)の3寺を統合したのがはじまりともいわれ、「護法山出雲寺」として出雲路の宿坊として栄え、藤原定家の日記「明月記」などにも記述が残るなど、中世には「毘沙門堂の花盛り」と称される桜の名所として有名だったといいます。
その後「応仁の乱」や織田信長による焼き討ちなど度重なる戦火で再び荒廃しますが、江戸初期の1611年(慶長16年)に後陽成(ごようぜい)天皇が天海に修興を命じ、更に1665年(寛文5年)、天海の弟子にあたる公海(こうかい)が現在の山科安朱の地に堂宇を再興。
次いで1682年(天和2)に後西天皇の皇子である輪王寺の公弁法親王(こうべんほっしんのう)が入寺して以後、代々法親王が入寺する門跡寺院となりました。
江戸時代の山科は、江戸と京都を結ぶ東海道の交通の要所として賑わいを見せていたことから、毘沙門堂にも多くの人々が訪れ、参勤交代の行列も参拝に訪れたといいます。
本尊の毘沙門天は商売繁盛・家内安全にご利益があり、1月の「初寅参り」には福笹が授与され善男善女で賑わうほか、京都七福神めぐりの一つにも数えられています。
諸堂は近世の門跡寺院特有の景観を伝える貴重な遺構として、その多くが京都市の有形文化財に指定されており、桃山風の彫刻が施された本堂や唐門、仁王門は日光東照宮と同種の建築手法で建てられているといいます。
また御所から移築された建物として宸殿、霊殿や勅使門があり、鄙びた山寺の風情の中にも高い寺格と静謐なたたずまいを垣間見ることができます。
このうち宸殿に描かれている狩野探幽の子・狩野益信(かのうますのぶ)作の「動く襖絵」はいわゆるトリックアートとして有名です。
また春は樹齢150余年の枝垂桜(シダレザクラ)などの桜の花が咲き誇るほか、秋は紅葉の名所としても有名で、境内は燃えるような赤で色鮮やかに染まります。
とりわけ仁王門への石段と、2つの中島を持ち池が中央に大きく広がる晩翠園などが見所です。