京都市南区上鳥羽岩ノ本町、名神高速道路「京都南IC」の近くにある浄土宗西山禅林寺派の総本山・永観堂の末寺。
「鳥羽街道(千本通)」に面し、「京の六地蔵めぐり」の一つ「鳥羽地蔵」として信仰されています。山号は恵光山(えこうさん)、本尊は阿弥陀如来立像。
この点、江戸中期の火災により寺伝資料を失っており、寺の歴史は不明な点が多いようですが、寺伝によれば平安末期の1182年(寿永元年)に文覚(もんがく 1139-1203)が袈裟御前(けさごぜん)の菩提を弔うために創建したと伝えられています。
文覚といえば全国各地を廻って荒行し、後に高雄・神護寺の中興の祖にもなった高僧。
「源平盛衰記」によれば、鳥羽離宮の北面の武士であった遠藤盛遠は、渡辺佐兵衛門尉源渡(みなもとわたる)の妻・袈裟御前に横恋慕し、彼と縁を切ることを迫ったところ、袈裟御前は操を守るため一計を案じ、夫を殺してくれと盛遠に持ちかけ、自らが夫の身代りとなり盛遠に殺されてしまいます。
その事実を知り自らの罪を恥じた盛遠は出家して文覚上人となり、誤って殺してしまった袈裟御前の菩提を弔うために当寺を建立したといわれています。
ちなみに正式名は「恵光山浄禅寺」ですが、境内入口に1647年(正保4年)にこの地(山城国長岡藩)の藩主・永井日向守直清が林羅山に撰文させ建立したという袈裟御前の貞女を顕彰した「恋塚碑」が建つほか、袈裟御前の首塚といわれる五輪石塔の「恋塚」があることから「恋塚浄禅寺」の名で知られています。
「本堂」は江戸後期の天保年間(1830-44)に再建されたもので、平安末期に作られたと伝わる本尊・阿弥陀如来立像を安置するほか、袈裟御前の木像も祀られています。
また「観音堂」に安置されている十一面観音立像(十一面観世音菩薩)は平安中期9~10世紀の作とされ、京都市指定文化財に指定されています。
そして「地蔵堂」に安置する彩色された地蔵菩薩立像は、平安初期の役人で歌人としても知られる小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後、そのことに感謝して一木から6体の地蔵を刻んだうちの1体と伝えられています。
この点、6体の地蔵は当初は小幡の里(現在の大善寺=伏見地蔵)に祀られていましたが、平安末期の1157年(保元2年)に後白河天皇が平清盛に命じて、京都に疫病が侵入しないよう祈願させ、京都周辺の交通の要所で都の出入口となる街道口の6ヶ所に一体ずつ分けて地蔵を安置させました。
奈良街道の入口にあたる大善寺(伏見地蔵)をはじめ上善寺(鞍馬口地蔵)、徳林庵(山科地蔵)、源光寺(常盤地蔵)、地蔵寺(桂地蔵)とともに、鳥羽街道の入口にあたるこの地にも分祀されたもので、俗に「鳥羽地蔵」と呼ばれています。
現在は毎年8月22・23日に行われている「京都六地蔵めぐり」の札所の一つとされ、当日は無病息災や家内安全などを祈願する多くの参拝者で賑わいます。
「六地蔵めぐり」では各寺に異なる6色の御幡(お札)が用意されており、このお札を6枚集めて持ち帰り玄関に吊るすと、一年の厄病退散、家内安全の護符となるといわれています。
さらに初盆には水塔婆供養をし、3年間巡拝すれば六道の苦を免れることができるとも伝えられています。
この他の見どころとしては、境内には千本通からよく見える樹高13.5mあるの楠(クスノキ)があり、京都市指定保存樹に指定されています。