京都市伏見区下鳥羽城之越町、京都市南部、千本通赤池の交差点から千本通を約600m南に下がった千本通沿いにある浄土宗の寺院。
山号は利剣山(りけんざん)で、本尊は阿弥陀如来。
「源平盛衰記」によれば平安末期、鳥羽離宮の北面の武士であった遠藤盛遠(えんどうもりとう 1139-1203)は、渡辺佐兵衛門尉源渡(みなもとわたる)の妻・袈裟御前(けさごぜん)に横恋慕し、夫と縁を切ることを迫ったところ、袈裟御前は操を守るため一計を案じ、夫を殺してくれと盛遠に持ちかけ、自らが夫の身代りとなり盛遠に殺されてしまいます。
その事実を知り自らの罪を恥じた盛遠は出家して文覚(もんがく)と名乗り、1182年(寿永元年)に誤って殺してしまった袈裟御前の菩提を弔うため墓を設け、一宇を建立したのが当寺のはじまりといわれていて、境内には袈裟御前の首を供養したと伝わる宝篋印塔が建てられ「恋塚」と呼ばれ、寺名の由来にもなっています。
文覚はその後、全国各地を廻って荒行し、後に高雄・神護寺の中興の祖にもなったことでも知られていて、この袈裟御前と恋塚の縁起物語は古来より人倫の大道を教えるものとして、御伽草子や浄瑠璃といった物語、詩歌、謡曲などの題材としても取り上げられています。
寺はその後1868年の「鳥羽・伏見の戦い」により焼失し一時廃絶しましたが、明治期に再建。
現在の「本堂」は2006年(平成18年)に再建されたもので、堂内には本尊・阿弥陀如来像のほか、袈裟御前と源渡、文覚上人の3人の木像を安置。
また境内にはその他にも茅葺きが印象的な「山門」や前述の「恋塚」と呼ばれる宝篋印塔のほか、法然の筆で文覚が建立した石板と伝わる「六字名号石」や恋塚と恋塚寺の由緒を記し袈裟を貞婦として顕彰する「恋塚寺碑」などがあります。
なお同じ京都市内の南区上鳥羽にある六地蔵めぐりの鳥羽地蔵で知られる「恋塚浄禅寺」にも同じように袈裟御前の塚と伝える五輪塔があり、恋塚碑が立てられています。