京都市北区上善寺門前町、鞍馬口通と寺町通の交差する位置にある浄土宗知恩院派の寺院で、毎年8月22日と23日に行われる「六地蔵めぐり」の「鞍馬口地蔵」としてよく知られています。
平安初期の863年(貞観5年)に第3代天台座主・慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん 794-864)が天台密教の道場として千本今出川の地に創建。
その後室町時代の文明年間(1469-87)に春谷盛信(しゅんこくせいしん)が天台真盛宗として再興するとともに現在の寺号を定め、以後は第104代・後柏原天皇(ごかしわばらてんのう 1464-1526)の勅願寺として栄えました。
安土桃山時代の1594年(文禄3年)、豊臣秀吉の都市改造政策により千本今出川から寺町通の現在地に移り、この際に浄土宗へと改宗しています。
本尊・阿弥陀仏坐像は行基作と伝わり、江戸時代の1634年(寛永11年)に後水尾天皇の勅により嵯峨今林の蓮華清浄寺の本尊を移したもの。
また六角堂の地蔵堂に安置されている深泥池地蔵は、平安初期に小野篁(おののたかむら)が、一度冥土へ行った際に生身の地蔵尊を拝んだことで蘇った後、一木から六体の地蔵を彫りだしたうちの一つという伝説を持つ地蔵で、当初は六地蔵にある大善寺に六体の地蔵尊が安置されていましたが、平安末期の保元年間(1156-59)に平清盛が西光法師に命じ、京へ出入りする6つの街道口に分けて安置することとなり、これが「六地蔵めぐり」の元となります。
深泥池地蔵は鞍馬街道の入口にある深泥池の畔に安置されていましたが、その後明治時代に起こった「廃仏毀釈」により上善寺へと移されたもので、以後は「鞍馬口地蔵」と呼ばれ、毎年8月22・23日に行われる「六地蔵めぐり」の際には多くの参拝客で賑わいます。
その他に境内東側の墓地内には「長州人首塚碑」があり、1864年(元治元年)7月19日の「禁門の変」で鷹司邸付近で亡くなった入江九一ら長州藩士の墓があります。