京都市伏見区桃山町西町、京都市伏見区と宇治市の境界近くの「六地蔵」より京都府道7号(京都外環状線)を西へと進んだ先にある浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。
「六地蔵」ないし「伏見地蔵」という通称で有名で、毎年8月の地蔵盆にの時期に開催される「京都六地蔵めぐり」の1つ、「奈良街道」沿いに置かれていた地蔵が祀られていることで知られています。
ちなみに「六地蔵」は行政地域としては宇治市に属しますが、JR奈良線、京阪宇治線、地下鉄東西線の各六地蔵駅が隣接する京都南部の玄関口であり、現在は各駅周辺には大型スーパー等が立ち、交通量も多く、あまり京都らしさは感じられない地域ですが、古くから都と山科、宇治、奈良を結ぶ分岐点として多くの旅人が往来した場所でした。
奈良時代よりも前の705年(慶雲2年)に、藤原鎌足の子・定恵(じょうえ)が大和国多武峰から来住し創建とも伝えられており、平安後期に三井寺(園城寺)を開いた智証大師円珍(一説には慈覚大師円仁)が、地蔵菩薩を安置し天台密教寺院として再興しました。
その後「応仁の乱」の後に一度は衰退しますが、1561年(永禄4年)に浄土宗寺院として再興し「大善寺」と改め現在に至っています。
山門正面の左奥にある地蔵堂(六角堂)に安置された極彩色が美しい地蔵菩薩立像(重文)は、平安初期の852年(仁寿2年)に、朝廷に勤める役人で歌人としても知られる小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土に行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後、一木から刻んだと伝わる六体の地蔵菩薩像の一つといわれ、創建に関しても開基を小野篁とする説が「六地蔵」の名前の由来と共によく知られています。
伝説では
849年(嘉祥2年)、小野篁が48歳の時、熱病を患い意識を失っている間に地獄の風景を見た。
地獄に落ちて苦しんでいる人々の中に、一人の僧がこれらの人々を救っている場に出会う。
その僧は自分は地蔵菩薩であると名乗り、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の「六道」の迷いの世界を巡って縁ある人々を救っているが、縁の無い人を救うことはできないのが残念である。
お前はこの地獄の様子と地蔵菩薩のことを人々に知らしめて欲しいと語ったという。
その途端、小野篁は目覚めてこの世に甦ったといい、すぐに木幡山から一本の桜の木を切り出すと、6体の地蔵菩薩を刻んでこの地に祀ったといい、その由緒によりこの地は「六地蔵」と呼ばれるようになったといいます。
その後、6体の地蔵菩薩像は、1157年(保元2年)に後白河天皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じ、京都に疫病が侵入しないよう京都周辺の街道の6か所の入口に、六角堂を建て地蔵を一体ずつ安置させて街道の守り神とされ、更には地蔵信仰が盛んになると毎年8月の地蔵盆に6か所の地蔵を参詣する「京都六地蔵めぐり」が盛んとなりました。
この中で大善寺は6体の地蔵菩薩像が最初に祀られていた場所であり、現在も「京都六地蔵めぐり」の1つとして、8月22・23日の両日には多くの参拝客で賑わいます。
境内には新しい建物が多い中で、鐘楼は1665年(寛文5年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の娘・東福門院が安産祈願成就のお礼として寄進し、水野石見守が普請奉行となって建造されたもので、鐘は直径3尺=90cm、高さ4尺3寸=約130cm、重さ250貫=1tあるといい、また天井には極彩色の絵模様が描かれています。
この他にも地蔵堂の左の厨子内には小野篁像が祀られているほか、「京都十三仏霊場」の第5番札所としても信仰を集めています。