京都市東山区妙法院前側(まえかわ)町、七条通を東へ進み、鴨川に架かる七条大橋を渡った七条通の東の突き当たり、智積院のすぐ北隣、また南北に走る東大路通を挟んで京都国立博物館の東側に位置する天台宗寺院。
青蓮院(しょうれんいん)、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称される門跡寺院で、山門五箇室門跡の一つでもあり、新日吉(いまひえ)門跡、皇后門跡とも呼ばれています。
この点「門跡(もんぜき)」とは皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指し、塀の外壁に描かれた5本の白い横線がその格式の高さを示しています。
そして有名な三十三間堂(蓮華王院)および方広寺(大仏)を管理下に置いていることでも知られる寺院です。
近世以前の寺史は多くの説が見られるなど錯綜しているとのことですが、青蓮院、三千院などの天台宗の他の門跡寺院と同様に、比叡山上にあった延暦寺の一坊(小寺院)をその起源とし、延暦年間(782~806)、天台宗の開祖・最澄(伝教大師)の開創と伝わり、一説には比叡山西塔にあった坊「本覚院」が起源とされますが、確証はないといいます。
妙法院という名称は、平安後期、比叡山西塔・本覚院の快修が本覚院の別称として用いたのがはじまりといい、その後、快修の甥にあたる昌雲(しょううん)がその後を継ぎ、1160年(永暦元年)に洛中に移転されたと考えられています。
1160年(永暦元年)10月16日、後白河上皇が「平治の乱」で焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として法住寺殿の造営に取り掛かると、その鎮守社として紀州熊野本宮より熊野大神を勧請して新熊野社(現在の新熊野神社)を、また比叡山東坂本の日吉大社より皇居守護の山王七社の神々である日吉山王(ひえさんのう)を勧請し新日吉社(いまひえしゃ)(現在の新日吉神宮)を創建します。
後白河上皇の護持僧として篤い帰依を受けていたとう昌雲は、この時に新日吉社の初代の検校職(別当)となり、法住寺殿に接して里坊を開き「妙法院」と号したといい、その後、法住寺や1164年(長寛2年)に法住寺殿内に鎮守寺として建立された蓮華王院(三十三間堂)と合わせて管掌させたといい、これにより寺基が確立したため後白河法皇は妙法院において中興第1世とされています。
更に鎌倉初期の1202年(建仁2年)、昌雲の後を継いだ門弟・実全が第66世の天台座主となると、綾小路小坂(現在の京都市東山区・八坂神社の南西付近)に移転して「綾小路房」と呼ばれる自坊を構えるとともに正式に「妙法院」の号を立てたともいわれています。
また同じく鎌倉初期の1209年(承元3年)3月、高倉天皇の皇子で後に第76世・天台座主となる第18代門主・尊性法親王(そんしょうほっしんのう 1194-1239)が出家し妙法院の実全の下に入寺すると、以来幕末まで代々法親王が住持する「門跡寺院」となります。
そして法住寺・蓮華王院の法灯を嗣ぎ「新日吉門跡」「皇門跡」「綾小路門跡」などと称された妙法院は、梶井門跡(三千院)や青蓮院門跡とともに「天台三門跡」の一つにも数えられるようになりました。
その後、1467年(応仁元年)の「応仁の乱」の兵火で焼失するも、1586年(天正14年)に豊臣秀吉が法住寺跡に方広寺を創建し大仏の造立した際、その経堂(きょうどう)として寄進を受けて再建。
更に1614年(慶長19年)に有名な「方広寺鐘銘事件」によって豊臣・徳川両家の紛争が生じた後、豊臣家の滅亡後は徳川家康もその復興に努め、1615年(元和元年)に常胤法親王(じょういんほうしんのう 1548-1621)を迎え現在地に移転しています。
この点、現在地には元々は1595年(文禄4年)に豊臣秀吉の信任の厚かった天台僧・道澄が開基した照高院があったといいます。
江戸時代には方広寺や蓮華王院(三十三間堂)などの管理を任されるとともに、寺領一千六百十三石を与えられ、22万余坪という広大な寺域を有し栄え、また幕末には三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人が長州藩士とともに西下し京都から長州に逃れる「八月十八日の政変(七卿の都落ち)」の舞台にもなっています。
明治時代の廃仏毀釈でその境内は大幅に縮小されたものの、本堂や庫裏、宸殿、護摩堂、唐門、大書院などの堂宇を有し、現在も三十三間堂(蓮華王院)および方広寺(大仏)をその管理下に置いています。
中でも庫裏は桃山時代の1595年(文禄4年)頃の建造で、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養を行ったときの遺構と伝えられ、本瓦葺入母屋造の豪壮かつ重厚感溢れる建物で国宝に指定。
通常は庫裏は僧侶らが食事や入浴、休息などの日常生活を送る所であり、これが国宝に指定されるのは極めて珍しいといえます。
また本堂には象の上に仏様が乗る姿が印象的な普賢菩薩が本尊として祀られているのが珍しく「普賢堂」と呼ばれているほか、狩野派の障壁画で飾られている江戸初期の大書院および大玄関が重要文化財に指定されており、更に国宝の秀吉に宛てられた「ポルトガル国印度副王信書」など多数の寺宝を有しています。
境内は一部は無料で拝観が可能となっていて、本堂(普賢堂)や大玄関、庫裏などの建物の外観を見学することが可能ですが、庫裏が入口となっている建物内については通常は非公開となっていまる。
毎年の11月頃に行われる「秋の特別公開」および2014年(平成26年)から始まった5月14日の「五月会」にて範囲を限って公開されています。