京都市東山区妙法院前側町、東大路七条東入、T字の交差点より坂を登った先、東山の麓にある豊国廟の参道沿いに鎮座する神社で、後白河天皇と日吉山王七神を祭神とし、現在は神社本庁に属さない単立神社となっています。
社伝によれば、平安後期の1158年(保元3年)に後白河天皇が上皇となると院の御所として法住寺殿(ほうじゅうじ)を造営。
その造営に際して1160年(永暦元年)10月16日、御所の鎮守として近江国・比叡山東坂本のの日吉山王七社(現在の日吉大社)の神を勧請し、法住寺殿の東、現在より南の位置(智積院南側)に創建したのがはじまり。
新しい日吉神社ということから「新日吉(いまひえ)」と称し、天台座主が所管するところとなりました。
後白河上皇の造営当時は壮麗を極めたといい、またその後も朝廷の崇敬厚く、皇族の御幸は108度にも及んだとされ、多く天皇の遺物、宸筆を蔵しているといいます。
しかし室町中期の「応仁・文明の乱」などの度重なる戦火により、諸国数十ヶ所に及んでいた社領地も次第に減少していき、社殿その他の建造物も破損して、室町末頃には衰退し一時はほとんど廃絶という状態であったといいます。
その後江戸時代に入り、「大坂の陣」に勝利し豊臣家を滅ぼした徳川幕府が1615年(元和元年)に豊国廟社を廃止すると、後水尾天皇は実弟にあたる妙法院の堯然法親王(ぎょうねんほっしんのう 1602-61)に新日吉社を北社地に造営・遷座することを勅命。
現在地のやや北側、豊国廟を背後に、日吉馬場を正面参道として、旧豊国神社の参道上に再建され、1640年(寛永17年/明暦元年)には豊国社の御神体が樹下社(このしたしゃ)として新日吉社の神殿にひそかに遷し祀られたといいます。
明治期に入ると豊臣氏ゆかりの旧大名家が徳川幕府によって廃された豊国廟の復興を推し進め、1897年(明治30年)には秀吉の墓所を元の位置より東の阿弥陀ヶ峰頂上に移すとともに、新日吉神社を豊国廟前からやや南西の現在地に移転させ、更に日吉馬場の一部は豊国廟参道となり、現在に至っています。
この点、江戸時代には徳川幕府の命により豊臣家や秀吉に関するものはことごとく破壊ないし禁止されてしまいましたが、しかし京都での太閤人気は高く、「隠れキリシタン」のように密かに信仰する人々も多かったといい、そんな人々の思いが集約したのが豊国神社跡に建てられた新日吉神宮でした。
更に第二次大戦後の1958年(昭和33年)10月16日には法住寺御陵より後白河天皇が合祀され、また翌1959年(昭和34年)の10月16日には御鎮座800年大祭が盛大に行われるとともに、11月11日には天皇を奉祀する神社としての神宮号が公許され、現在の「新日吉神宮」に改められました。
「本殿」には祭神として、後白河法皇のほか、皇居守護神の山王七柱を祀り、酒造、医薬、縁結びの神として信仰を集めています。
この点、本殿脇に狛犬ならぬ狛猿の「御神猿」が金網に入れられた状態で祀られていますが、猿の姿をした神様のお使いで、「魔が去る」とか、「何よりも勝る」との語呂合わせがあるといわれ、信者の災禍を去るという不思議な働きをし、常に御幣を捧げて悪気を祓い、災厄を退けて幸福を授けてくれるといわれています。
ちなみに金網に入れられているのは神の使いが盗まれてしまわないように、あるいは猿たちが夜な夜な動き出すのを防ぐためという理由があると伝えられています。
また本殿の裏手には、京都市指定保存樹にも指定されているご神木の「スダジイ」があり、樹齢500~800年といわれる古木で、明治に移築する以前からあったと考えられています。
行事としては5月第2日曜の「神幸祭(新日吉祭)」、6月30日の「夏越大祓」、10月16日「例大祭」、そして11月14日「御火焚祭」などが知られています。
中でも5月の「神幸祭(新日吉祭)」は新日吉小五月会(こさきのまつり)として古くから伝わる宮中行事を再興したもので、神幸出立祭、鳳輦前での妙法院門跡による御法楽の儀・馬場御供の後、稚児武者をはじめとする氏子を中心とした200名ほどの行列が氏子区域を巡行します。