京都市東山区、七条通を挟んで三十三間堂の向かいにある京都国立博物館の北側に鎮座。
主祭神は神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉で、別名「ほうこくじんじゃ」、地元の人々からは親しみを込めて「ほうこくさん」とも呼ばれています。
1598年(慶長3年)8月18日、天下人であった豊臣秀吉が伏見城において62歳で亡くなると、その亡骸は遺言により東山三十六峰の一つ「阿弥陀ヶ峯」の中腹に埋葬されました。
その翌1599年(慶長4年)には秀吉を祀るために阿弥陀ヶ峯の西麓に約30万坪の太閤坦(たいこうだいら)が拓かれて「豊国廟(ほうこくびょう)」「豊国社(とよくにのやしろ)」が創建され、後陽成天皇からは「豊国大明神」の神号と正一位の神位も授けられました。
社領1万石、境内域30万坪をを有し、その偉観は豊国祭礼図屏風にも描かれているように壮大かつ壮麗を極めましたが、1615年(慶長20年)に「大坂夏の陣」における豊臣家の滅亡とともに徳川幕府の命により一時廃絶となり、廟社も徹底的に破壊されてしまいます。
以後、江戸時代を通じ260年もの間、草叢に埋もれ参拝もできない状態で放置されていました(豊臣秀吉の御霊は新日吉神社に移された)。
その後明治時代に入った1868年(明治元年)、明治天皇が「天下を統一しながら幕府を開かなかったのは尊皇の功臣である」と豊臣秀吉を称え、勅命により神社再興を命じ、1873年(明治6年)には別格官幣社に列せられます。
更に1875年(明治8年)に方広寺大仏殿跡地の現在地を拝領すると、1880年(明治13年)には社殿も再建。
豊国廟も阿弥陀ヶ峰の頂上に再建されました。
ちなみに豊国神社は当初は大坂城の外に造営する予定でしたが、京都市民の熱望により、大阪には別社が営まれました。
更に大阪城公園(大阪市中央区)以外にも、秀吉が始めて城主となった滋賀県長浜市のほか、出身地の名古屋市中村区などにも秀吉を祀る豊国神社が存在しています。
「人たらし」と言われ足軽の身分から天下人となった秀吉を祀ることから、現在では出世開運・金運の神様として全国より崇敬を集めています。
そして馬印である瓢箪を戦に勝つたびに一つずつ足していったところ千個にまで達したという秀吉の「千成り瓢箪」を思わせるかのように、唐門の左右にはひょうたん型の絵馬が数多く掛けられています。
本殿正面に立つ四脚の唐門(からもん)は伏見城の遺構と伝えられ、豪華絢爛な桃山時代を代表する建築物として国宝にも指定。
二条城から南禅寺金地院を経て明治の再建時に現在地に移築されたもので、西本願寺、大徳寺のものと合わせて「国宝の三唐門」と称されています。
また境内の「宝物館」には秀吉の遺品で豪華な高台寺蒔絵が施された唐櫃(重文)など、秀吉ゆかりの品を数多く展示し、有料で公開されています。
旧暦8月18日が秀吉の命日に当たることから、毎年9月18日に「例祭」を開催。
翌9月19日には茶道・藪内流家元による「献茶式」も執り行われています。
また「豊国さんのおもしろ市」として毎月8日には骨董市、18日にはフリーマーケット、28日には手作り市が境内で開催され、多くの人々で賑わいます。
他にも春は唐門前のソメイヨシノを中心に桜の名所でもあり、秋は本殿の周囲にそびえるイチョウの木が黄色く色づきます。