京都市東山区八坂鳥居前東入円山町、円山公園の北東側にある時宗寺院。
山号は慈円山、本尊は阿弥陀三尊立像。
平安初期の延暦年間(782-806)、平安京の鎮護のため伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう 767-822)により天台宗の寺院としての開創されたのがはじまり。
その後、平安後期の1174年(承安4年)、浄土宗の宗祖・法然(ほうねん 1133-1212)は43歳の時に専修念仏を会得し、比叡山を下り、西山広谷を経て法垂窟より清らかな水が湧き出ることからその名がついたという「吉水」の地に庵を結び、以後30数年もの間、同地は念仏の根本道場、浄土宗布教の中心地とされました。
この法然の吉水入りにあたっては慈円大僧正として第62代・天台座主も務めた青蓮院門跡第3代門主・慈鎮(じちん 1155-1225)の尽力があったと考えられています。
この点、慈鎮(慈円)は北畠親房の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」や新井白石の「読史余論(とくしよろん)」とともに日本の三大史論書といわれている「愚管抄」を著したことで有名なほか、「小倉百人一首」の第95番に前大僧正慈円として「おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染の袖」の歌が収録されているなど歌道にも優れ、密教にも通じ、弟子として法然、親鸞を輩出しており、とりわけ親鸞は9歳の時に慈鎮を剃髪の師として青蓮院で出家得度しています。
そして関白・九条兼実(くじょうかねざね 1149-1207)の弟にあたり、兼実は法然の熱心な信奉者であったという関係性から、兼実の依頼を受けて「吉水草庵」の建立に尽力したと考えられています。
またその後1201年(建仁元年)には浄土真宗の祖として知られる親鸞(しんらん 1173-1263)も、29歳の時に比叡山を下山して聖徳太子建立と伝わる六角堂で百日参籠を行い、聖徳太子による夢告に従って、吉水の法然を訪ねて入信しています。
このことから同寺は法然・親鸞両上人念仏発祥の地「吉水草庵」の旧跡として、浄土宗および浄土真宗にとっても特別な場所とされています。
1206年(建永2年)、法然が74歳の時にそれまでの仏教勢力による専修念仏の弾圧事件である「承元の法難」で土佐国、続いて讃岐国へと配流(親鸞も越後国へ配流)とされると、その後は慈鎮(慈円)がその復興に着手して青蓮院の末寺とし、境内に法華懺法を修する道場として大懺法院を建立するなどして寺勢の回復に努めたことから「吉水僧正」とも呼ばれ、また山号の「慈円山」も慈円の名から取られたものだといいます。
その後は次第に衰微するも、南北朝時代の1385年(至徳2年)に時宗の僧で各地を遊行し、京都に入って東山の正法寺や双林寺で布教にあたった国阿(こくあ 1314-1405)によって再興され、時宗に改められています。
その後、明治維新を迎えると「神仏分離令」「廃仏毀釈」の一環として、1871年(明治4年)に発令された「上知令」により八坂神社や、長楽寺、双林寺などとともに政府によって境内地の一部が没収され、1886年(明治19年)12月には京都市で最も古い公園として「円山公園」が開設されますが、これに伴って寺域は大きく縮小を余儀なくされ、現在は境内に本堂(阿弥陀堂)と書院、境内から約50m南に下がった飛び地境内にある弁天堂を残すのみとなっています。
このうち飛び地境内にある「弁天堂(吉水弁財天)」は慈鎮(慈円)が寺の鎮守とするために比叡山から吉水の畔に弁財天を勧請したもので、技芸上達の祈願の信仰が厚いとい、他にも法然上人が使ったという古井戸「吉水の井」があるほか、弁財天堂の裏にある多宝塔は「慈鎮塔(慈鎮和尚多宝塔)」と呼ばれ、塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦の2仏が並座する鎌倉初期の一品で、国指定の重要文化財に指定されています。
ちなみに円山公園の「円山」という名前は、元々周辺一帯は平安時代から「真葛ヶ原(まくずがはら)」と呼ばれていたものが、江戸時代に安養寺の山号である「慈円山」より慈の文字を外して「円山(まるやま)」と呼ばれるようになったことにちなんだものだといい、同寺が円山公園の名称の元にもなっているともいえます。
また安養寺の境内には江戸時代には勝興庵正阿弥(しょうこうあん しょうあみ)・長寿庵左阿弥(ちょうじゅあん さあみ)(長寿院とも)・花洛庵重阿弥(からくあん じゅうあみ)・多福庵也阿弥(たふくあん やあみ)・延寿庵連阿弥(えんじゅあん れんあみ)・多蔵庵春阿弥(たぞうあん しゅんあみ)(源阿弥とも)と、「阿弥」の名がつく6つの住坊「六阿弥坊」が設けられていたといい「円山の六坊」と呼ばれました。
そのいずれもが後に東山西麓の起伏を活かし変化に富んだ林泉美の庭園と卓越した眺望を持つ楼閣を構え、民衆へ席を貸す「貸座敷」を営んでいたといい、詩歌や連俳、歌舞、遊覧酒宴の名所地として行楽客や文人墨客に愛されたといい、その盛況の様子は「都名所図会」「都林泉名勝図会」などにも見られるといいます。
このうち弁財天の前にあったという「重阿弥」は1702年(元禄15年)7月28日に赤穂浪士が「円山会議」を開き、吉良上野介を討つための敵討ちの血判状を交わした場所としても有名です。
その後明治維新とともに六坊は廃寺とされ、春阿弥は明治初期の京都における殖産興業の指導者として知られる明石博高により金閣に模した三層楼の温泉場が建築され1973年(明治6年)頃に「吉水温泉」として開設。
また也阿弥は1879年(明治12年)に長崎の井上万吉によって買い取られた後、連阿弥・重阿弥を合併し後に京都で「ホテル」と称した最初のものといわれる「也阿弥ホテル(也阿弥楼とも)」となり、1892年(明治25年)には正阿弥を買い取って拡張し、1899年(明治32年)に一度は火災で焼失するもその後、西洋風のホテルとして再建されました。
しかし1906年(明治39年)に再び火災を起こし、吉水温泉とともに全焼したことから円山公園の拡張の機運が高まるとともに再建の許可が下りず、1908年(明治41年)に也阿弥ホテルと吉水温泉はいずれも閉業となっています。
このため六坊の中で現在唯一残っているのは老舗料亭として残る「左阿弥」のみで、明治維新以降太平洋戦争終結時までは重要な国策を決める「御前会議」にも使われ有栖川総督宮や山県有朋が滞在し、 江戸後期を代表する漢学者・頼山陽や日本画家・土田麦僊などからもこよなく愛されたといい、志賀直哉の「暗夜行路」や川端康成の「古都」にもその名が登場するといいます。