京都市上京区一条七本松西入ル滝ケ鼻町、「天神さん」で親しまれる北野天満宮のやや南にある北野商店街に店を構える老舗の和菓子店で、太閤秀吉ゆかりの「長五郎餅」で知られ、天正年間から400年以上も続く名店です。
戦国の世も終幕に向かいつつあった天正年間(1573-92)のこと、北野天満宮が鎮座する一帯は、緑深く生い茂った森林に囲まれ、清流がせせらぐ洛中きっての景勝地で、梅や紅葉の時期を中心に多くの参拝客で賑わっていたといいます。
そんな天満宮の縁日に決まって現れる一人の老人がいて、いつも境内に出店している者に小さな餅を5、6個売ると去って行ったといい、ある時何者かがその老人に名を尋ねると「河内屋長五郎(かわちやちょうごろう)」と名乗ったといいます。
当時の菓子といえば味も見た目も素朴なものが主流で、また餅を餡でくるんだものが主流でしたが、長五郎は長年の研鑚の末に餡を餅で包むという手法を考案。
あっさりしっとりとした滑らかなこし餡を羽二重の絹織物のような柔らかな薄い餅皮で包み込んだこの和菓子は、上品な味わい洗練された意匠で次第に評判となったといい、餡入り餅の祖とされています。
1587年(天正15年)10月1日、関白太政大臣となり、九州平定を終え、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉は、北野天満宮境内の松原において「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)(北野大茶会)」を催すこととなり、市中に高札を掲げて身分や貧富の差に関係なく参加を呼びかけました。
公家や大名から民衆までも動員されて境内には1500余りの茶屋が設けられ、拝殿内には秀吉が収集した名物茶器が披露され、その中央には秀吉自慢の黄金の茶室も飾られたといわれていて、また拝殿の周りに特設された4つの茶席では、秀吉をはじめ千利休、津田宗及、今井宗久という当代きっての3人の茶人を合わせた計4人が参会者に茶を立ててもてなしたといいます。
そしてこの時、初代長五郎も出店仲間の勧めで茶屋を出したといいますが、その餡入りの餅が茶菓として秀吉に献上されたところ、大層気に入られたといい、「以後長五郎餅と名乗るべし」と「長五郎餅」の名前を下賜され、これが長五郎餅本舗の由来となっています。
天下人によって「長五郎餅」と名乗ることを許された後、長五郎餅の味は400年以上にわたって河内屋長五郎の後裔によって守られ続けることとなり、明治維新まで皇室御用達を務めるとともに、小松宮家や山階宮家といった各宮家の愛願も受けていたといい、幕末には京都詰めとなった各藩の大名たちがこぞって長五郎餅を自らの国へ土産として買って帰ったことから、その名声は全国に知れ渡るようになりました。
また北野名物として一般庶民にも親しまれ、その賑わいぶりは現在店の奥に飾られている江戸時代の「北野天満宮参詣賑恵図」という当時の双六にも紹介されているほどだといい、現在も北野天満宮の門前名物として知られています。
元々は周辺も天満宮の境内だったという本店は少し南へと下がった一条通七本松の北野商店街内にあり、持ち帰りはもちろん、午前11時から午後3時までは、「長五郎餅煎茶セット」「長五郎餅抹茶セット」というメニューもあるように店内の茶席でお茶と一緒に食べることもできます。
現在の21代目の当代にいたるまで、初代長五郎が考案した風合いを守りつつ、原料の餅米や小豆を吟味し製法にも改良を重ねることで伝統の味を維持し続ける一方、新たな感性を活かした新商品の開発にも意欲的に取り組んでいるといいます。
また現在は本店以外に北野天満宮境内にも出店し長五郎餅を販売することがありますが、これは1927年(昭和2年)の「大万燈祭(菅原道真が亡くなってから50年毎に執り行われる式年祭)の際に、大勢の参拝者のために茶店を出すよう天満宮から依頼されたのがはじまりだといいます。
東門を入ってすぐ左手にある慶応年間(1865-68)の建築と伝わる全面が土間の重厚な建物にて、毎月25日の天神さんの日のほか、正月の1日より4日まで・2月3日の節分祭、1月より3月25日までの梅苑のシーズンの土日祝など、北野天満宮での行事のある日に特別に出店されます。