京都市左京区松ヶ崎六ノ坪町、京都市北部を東西に通る北山通と松ヶ崎通の交差する地下にある京都市営地下鉄烏丸線の駅で、京都市営地下鉄PRプロジェクト「地下鉄に乗るっ」のアニメの関連キャラは主人公・太秦萌の幼なじみで陸上部所属の「松賀咲」。
「松ヶ崎(松ケ崎)(まつがさき)」は京都市の北東、東西は上賀茂の東から高野川の西側まで、南北は岩倉の南から下鴨の北側に位置し、宝ヶ池の周囲に広がる松ヶ崎丘陵とその南麓に広がる地区で、現在は京都の夏の風物詩である「五山の送り火」の「妙法」の文字が点火される地域として知られています。
松ヶ崎には西から「妙」が点灯される西山、林山、「法」が点火される東山、そして城山などがあり、総称して「虎の背山」と呼ばれ、虎の背山では埴輪を含む古墳がいくつか発見されていることから古くから人が住んでいたと思われますが、「松ヶ崎」の文字が歴史上の記録に登場するのは平安京の遷都からで、810年(大同5年/弘仁元年)に平安京を開いた第50代・桓武天皇の第2皇子である第52代・嵯峨天皇(さがてんのう 786-842)が松ヶ崎川で大嘗会の御禊をしたとの記述が「本後紀」にあり、また992年(正暦3年)には中納言・源保光により比叡山三千坊の一法場として「松崎寺」が建立されたとの記述が「日本紀略」に残されているといいます。
そして桓武天皇の平安遷都の際に奈良の平城京から100軒の百姓を松ヶ崎に移住させて田と山林を貸し与え、皇室のための米作りをさせたという「松ヶ崎百人衆」の言い伝えが残るように皇室との関係が深かったことから、度々の兵火に襲われながらもすぐに復興されるなど様々な便宜が図られるとともに他の村と比較して優遇され、安定した収入があり、貧富の差もなかったといいますが、その一方で分家が許されず常に100軒の農家が安定して作物を作ることが要求され、そのため村には今も伝わる様々な厳しい掟や「松ヶ崎定法」と呼ばれる定法が定められ、江戸時代を通じてほとんど人口が変動しなかったといいます。
また平安の貴族たちは避暑や休息、猟や文芸活動などの場として洛中にある屋敷の他に都の近郊で自然が美しい風光明媚な地を選び「別業」と呼ばれる別荘を所有していたといい、嵐山や宇治などがよく知られていますが、松ヶ崎や修学院、八瀬、高野といった洛北の地もそのような場所の一つであったといい、有名な紫式部の「源氏物語」の「夕霧」の帖にも「ことに深き道ならねど、松ヶ崎の小山の色なども」とその名が記されているほか、紀貫之は「たなひかぬ 時こそなけれ 秋もまた 松ヶ崎より 見ゆる白雪」という和歌を残しています。
そして松ヶ崎で現在最もよく知られているのが毎年8月16日に開催され京都の夏の風物詩である「五山送り火」にて送り火の一つとして点火される「妙法」の文字で、祖先の霊を送るため松ヶ崎の東山(大黒天山)にて「法」の字が、西山(万灯籠山)にて「妙」の字が灯されます。
その始まりは鎌倉時代のこと、1294年(永仁2年)に京都に日蓮宗を広めた日像(にちぞう 1269-1342)が松ヶ崎にて行った全村の改宗でした。
1306年(徳治元年)、松ヶ崎の天台宗寺院・歓喜寺の住職であった実眼の夢に白い狐に乗った翁が現れて都に行き日輪の像を拝むように夢告があり、すぐに京の町に出かけてみると辻説法をしていた日像に出会い、僧の話を熱心に聞き心服した実眼は日蓮宗に改宗するとともに寺も日蓮宗寺院の「妙泉寺(現在の涌泉寺)」と改め、村人にも改宗を勧めますが、いったんは拒まれたものの、日像を招いて講話をしてもらった所、村人全員が改宗を決意したといいます。
そして喜んだ実眼が題目を唱えると、村人たちはこれに和して踊ったといい、これが日本最古の盆踊りともいわれていて、「松ヶ崎題目踊り」として京都市の登録無形民族文化財にも指定されています。
また日像はこの事を記念して虎の背山の西山(万灯籠山)の南面に杖で「妙」の字を書き、村人たちがその周囲の木を切り松明を燃やしたのが「妙」の送り火の始まりと伝えられていて、更に時代が下がった江戸時代に日良が虎の背山の東山に「法」の字を描き、これによって「妙法」で対の送り火が出来上がったといわれています。
この点、松ヶ崎はその名のとおり昔から松の木が多く生えていて、どの家にも持ち山があり、正月三が日が過ぎると「山行き」をして木や柴を刈り一年分の燃料を作ったほか、秋には松茸も取れたといいます。
明治以降は1868年(明治元年)に山城国愛宕郡が旧京都府に編入された後、1889年(明治22年)の町村制施行により「松ヶ崎村」が発足し、1931年(昭和6年)4月1日に上賀茂村・修学院村とともに京都市に編入され(上賀茂は北区・修学院と松ヶ崎は左京区)、現在の左京区松ヶ崎を町名に冠する地域がこれにほぼ相当しているといいます。
松ヶ崎村の京都市への編入により「定法」による縛りが緩まったことで、以降は地区の南側から徐々に宅地化が進み急速な人口増加が見られましたが、松ヶ崎の北側は市街地北端を区切る洛北の丘陵地の自然的景観の保全を図るための「上賀茂風致地区」に、また高野川右岸地区に相当する南側は鴨川の遠望景観の維持を図るための「鴨川風致地区」にそれぞれ指定されていて、景観や自然を守るため法令により高さ規制などの建築に関する様々な制限をかけることで良好な住環境が保たれている地域となっています。
松ヶ崎は東山や西山を含む虎の背山を背に、その山裾に沿って帯状に集落が広がっており、厳しい建築制限の中で建てられた低層の住宅などが虎の背山や高野川などの自然に溶け込んでおり、独特の景観を形作っています。
周辺は主に住宅街ですが、松ヶ崎の大黒さんさんとして知られる「松ヶ崎大黒天(妙円寺)」や送り火を管理する日蓮宗寺院の「涌泉寺」、古くより松ヶ崎神社の氏神として知られる「松ヶ崎新宮神社」などの寺社仏閣のほか、「京都ノートルダム女子大学」や「京都工芸繊維大学」などの大学や学校が点在し、また、宝ヶ池公園や京都府立植物園、修学院離宮などにも近く、近年の外国人観光客の賑わいや都会の喧騒から離れた、奥座敷のような静かで落ち着いた時の流れを感じることができる場所です。
「松ヶ崎駅」はその松ヶ崎地区の中心駅として近年になって新たに設置された京都市営地下鉄烏丸線の駅です。
この点、京都市営の「地下鉄烏丸線」はその名の通り京都市の中央を南北に通る烏丸通の地下を主に通り北は京都国際会館駅から京都駅を経て南は竹田駅までつなぐ路線で、1977年(昭和52年)に同じ烏丸通の路面上を通り京都市交通局が運営し北大路通から九条通までを結んでいた路面電車「京都市電(きょうとしでん)」の烏丸線が廃止された後、1981年(昭和56年)5月29日にまず北大路駅~京都駅間が開業された後、1988年(昭和63年)には南側の京都駅~竹田駅間、1990年(平成2年)には北側の北山駅~北大路駅間、更に1997年(平成9年)には国際会館駅~北山駅間と順次延伸され、現在に至っています。
「松ヶ崎駅」は1997年(平成9年)6月3日に烏丸線が当駅から国際会館駅まで延伸された際に設置された駅で、島式ホーム1面2線の地下駅で、現代に入り市内の東西方向を結ぶ幹線道路としては最北に位置する「北山通」が、松ヶ崎にも1977年(昭和52年)より宝が池通~高野川間の開通工事が開始され、1985年(昭和60年)に修学院までが全線開通していますが、松ヶ崎駅はその北山通が松ヶ崎通と交差する付近の地下に建設されました。
そして駅の北側には前述のような虎の背山の丘陵を背に昔ながらの住宅地が広がっていますが、駅のある北山通沿いは教会やウエディング施設などの洋風な建物が多く立ち並ぶことから「北山ウエディングストリート」とも通称され、とりわけクリスマスの時期には美しいイルミネーションが点灯され、多くのカップルや来場者が訪れる新たなスポットとして注目されています。