京都府京都市北区鷹峯にある、日蓮宗の寺院。
山号は寂光山で、旧本山は身延山久遠寺。
「鷹峯(鷹峰)」は、鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰で構成される鷹峰三山のうち鷹ヶ峰の南麓一帯。
金閣寺のそばにそびえる左大文字山の北、秀吉が築造した「御土居」に設けられた京の七口の一つ「長坂口」から北西へ進んだ、北丹波へと続く街道の途中に位置しています。
この地は江戸初期に文化人として活躍し琳派の祖とも呼ばれる本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が、天下人となった徳川家康より拝領した「光悦村」の一部だった場所。
1615年(元和元年)、57歳の時に東西200間、南北7町を拝領すると、本阿弥一門と画家、陶芸家、工匠らその家職につながる集団を引き連れ移住。晩年の20年余を過ごし、芸術の郷を築き上げました。
常照寺はまさにその時代にあたる1616年(元和2年)、日蓮宗の熱心な信者だったという本阿弥光悦の土地寄進を受け、光悦の養子・本阿弥光嵯(こうさ)の発願で久遠寺の日乾(にちけん)を開山として招き、法華の鎮所を建立したのがはじまり。
その後1627年(寛永4年)には日乾によって日蓮宗の学寮「鷹峰檀林(たかがみねだんりん)」が開かれ、仏教の学問所・修行場として明治初期まで続き、厳しい戒律の中で最盛期には200余人の学僧が学んでいたといいます。
常照寺は「鷹峰檀林」を旧跡とする寺院で、明治まで常照寺は檀林の寺(だんりんのてら)と呼ばれていたといい、日蓮宗中興の祖とされた日乾の墓は「開山廟」となっています。
また江戸初期の太夫で、美貌と品格で「天下随一」と謳われた島原の名妓・二代目吉野太夫が深く帰衣したことでも知られており、そのため常照寺は「吉野太夫ゆかりの寺」とも呼ばれています。
美人で教養が高く、和歌や俳句、書道や茶の湯、更には香道など諸芸にも優れ、その名声は遠く中国にまで喧伝されたという吉野太夫は、本阿弥光悦の縁故によって日乾上人に帰依し、1628年(寛永5年)、23歳の時に山門を寄進。朱塗りが印象的な門は「吉野門(赤門)」として現在も残っており、寺のシンボル的存在になっています。
境内にはこの他にも吉野太夫が好んだという丸い「吉野窓」のある茶席「遺芳庵」や、吉野太夫自身の墓もあり、歌舞伎において夫の豪商・灰屋紹益とのロマンスは有名で演目にもなっていることから歌舞伎俳優や芸能人が訪れる事も多いといいます。
近年は約100本もの桜が咲き誇る桜の名所としても有名ですが、吉野桜が満開になる4月の第2日曜日には吉野太夫を偲んで「吉野太夫花供養」が行われることでも知られています。
紅葉の名所として知られる源光庵から常照寺まで約100mほどの参道を、島原の太夫が禿(かむろ)や男衆を伴い厳かに練り歩く「太夫道中」のほか、法要・墓参の後には献茶や舞いも披露され、当日は多くの参拝客・観光客で溢れ返ります。
桜の他にも初夏の青もみじやサツキ、紫陽花や蓮、更に秋は萩や楓のトンネルとなる紅葉の名所としても有名で、四季折々の草花が楽しめることでも知られています。