京都市北区紫野大徳寺町、堀川北大路より約400m西に大伽藍を構える、臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の20余りある塔頭寺院の一つで、加賀百万石の藩主・前田家ゆかりの寺院。
塔頭の中では最も北に位置する寺院で、本尊は釈迦牟尼仏。
江戸初期の1608年(慶長13年)、加賀百万石の礎を築いた戦国武将・前田利家(まえだとしいえ 1539-99)の正室で、2002年(平成14年)の大河ドラマ「利家とまつ 加賀百万石物語」の主人公としても知られる松子(まつ)(後の芳春院)が、大徳寺147世・玉室宗珀(ぎょくしつそうはく 1572-1641)を開山として建立。まつの法号である「芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼」より「芳春院」と名付け、前田家の菩提寺としたのがはじまり。
この点、松子(まつ 1547-1617)は、尾張国海東郡沖島(現在の愛知県あま市)の出身で、篠原一計(しのはらかずえ ?-1549)の娘といわれていますが、地元では沖之島(愛知県あま市七宝町)の郷主・林日開常信の子で篠原主計の養女となったとする説もあるそうです。
まつの母と利家の母・長齢院(竹野氏)(ちょうれいいん ?-1573)とは姉妹であることから、利家とは従兄妹関係にあたり、幼くして父親が亡くなり母親が再婚することとなったため、母親の妹の嫁ぎ先である尾張荒子城主・前田利春(まえだとしはる ?-1560)に預けられて養育されることとなり、後に利春の子・前田利家の正室として12歳で結婚、利家との間には2男9女の11の子女をもうけたといい、その子孫の中には近代以降の皇室などに血脈を伝えている者もいるといいます。
学問や武芸に通じた才女であったといい、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」の際には柴田勝家方に与することとなった利家が敗走した際に、越前・府中城で羽柴秀吉と面会して和議を講じ、また1599年(慶長4年)の利家没後に起きた1600年(慶長5年)の「関ヶ原の合戦」に際しては直前に徳川の人質として江戸に下り、以後15年にわたる人質生活を送り、前田家の存続に尽力しました。
その後、長男で第2代藩主・前田利長(まえだとしなが 1562-1614)の死去後に金沢に戻り、その3年後の1617年(元和3年)に71歳で亡くなっています。
「芳春院」の開創期には多くの公家や武家、茶人などが集い、寛永文化の発信地ともなりましたが、江戸後期の1796年(寛政8年)の火災によって創建当時の建物は焼失。
その2年後に加賀前田家第11代・前田治脩(まえだはるなが 1745-1810)によって再興され、現在も残る方丈(客殿)・庫裡・呑湖閣(どんこかく)などが再建されています。
明治期には明治新政府の神道国教化政策に伴って起きた仏教の抑圧・排斥運動である「廃仏毀釈」の嵐の中で荒廃し、1875年(明治8年)になってようやく復興され、現在に至っています。
方丈の背後北側にある「飽雲池(ほううんち)」は江戸初期の1617年(元和3年)、京都の名医・横井等怡が作庭家として名高い小堀遠州(こぼりえんしゅう 1579-1647)に諮って作庭した伝わり、度々改造されてはいるものの創建時の面影を伝えており、市内でも珍しい楼閣山水庭園として名高く、杜若や睡蓮が美しいことで知られています。
そしてその池の中に「打月橋(だげつきょう)」で結ばれて立つ二重楼閣建築の「呑湖閣(どんこかく)」は、庭園と同年の1617年(元和3年)に前田利家の子で加賀藩初代藩主・前田利長(まえだとしなが 1562-1614)が、小堀遠州に依頼して建てたものと伝えらる臨済宗の名僧で玉室宗珀の師・春屋宗園(しゅんおくそうえん 1529-1611)の昭堂で、現在の建物は江戸後期の1804年(文化元年)に再建されたもの。
楼閣の上層から東方には比叡山の壮大な景観が広がっており、その比叡山の背後にある琵琶湖を呑み込むという意味からその名がついたといわれていて、金閣・銀閣・西本願寺の飛雲閣と並んで「京の四閣」と称される名建築です。
その他にも方丈前庭の枯山水の庭園「花岸庭」、現在も各流派が茶会を行っているという茶席「迷雲亭」などがあり、また墓地には芳春院の霊屋(みたまや)や「東寺百合文書」の整理を行ったことで知られる加賀藩第4代藩主・前田綱紀(まえだつなのり 1643-1724)の霊屋をはじめ、前田家代々の墓、近衛家の墓などもあるといいます。
そして江戸初期から後期にかけての建築が多く残る点が貴重であるとして、2002年(平成14年)に芳春院霊屋、瑞龍院霊屋、昭堂(呑湖閣)、打月橋、表門、墓参門の計6件が京都府指定有形文化財に指定されています。
通常は非公開の寺院ですが、秋に定期拝観が行われているようです。