京都府宇治市宇治蓮華、宇治川に架かる宇治橋西詰からみ並へ、「縣神社」への参道となっているあがた通りの大鳥居を抜けた先の通りのすぐ左に位置する小さな神社。
「縁切り」のご利益で有名なように悪縁切りのドロドロした逸話もある一方、宇治橋の守り神とされるエピソードもある神社です。
646年(大化2年)に宇治川に宇治橋が架けられた際、橋の守護神として上流の櫻谷(桜谷)と呼ばれた地に祀られていた人の罪や穢れを流し去ってくれるという川の女神・瀬織津比咩(瀬織津媛)(せおりつひめ)を勧請し、橋姫として祀ったのがはじまりとされています。
この点、古くは橋の守護と管理を任されていた放生院常光寺(橋寺)の敷地内で、宇治橋の中ほどに張り出して造られた「三の間」に祀られていたといいます。
「三の間」とは橋の真ん中付近に一部分出っ張った場所のことで、かつて豊臣秀吉がここから茶の湯の水を汲んだと伝わり、平成に建て替えられた新しい橋にも設けられ、「宇治茶まつり」でもここで神事および水汲みの神事が行われていますが、元々は橋姫が祀られていた場所でした。
その後、宇治橋の西詰に祀られ、更に明治時代の1870年(明治3年)に洪水による流出の後、1906年(明治39年)10月に現在の場所に移されました。
宇治橋の守り神である一方で、いくつかの伝承が伝わっており、その一つが「宇治の橋姫」と呼ばれる伝説です。
宇治の公家の娘であった橋姫という女が、夫をある女性に盗られたことから嫉妬に狂い、貴船神社に「丑の刻参り」をして鬼女に変身し女性を殺し、その親類を殺し、遂には誰彼かまわず殺し人々を恐怖に陥れたといいます。
この伝承から「縁切り」の神様として悪縁を断ち切るご利益があるとされ、その一方で婚礼の行列はこの神社や宇治橋を通るのを避けるという慣習もあったといいます。
そしてもう一つ有名なのが紫式部の「源氏物語」の第45帖、第3部「宇治十帖」の冒頭の「橋姫」のエピソードです。
主人公・光源氏が亡くなった後の話で、ここからは光源氏の子供である薫と孫の匂宮が主役を務めますが、
「橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」
上記の薫が光源氏の腹違いの弟・八の宮に宛てて詠んだ和歌からタイトルがつけられたといわれ、橋姫神社は源氏物語「宇治十帖」ゆかりの古跡にもなっています。
また境内には瀬織津比咩尊の他に水の神として知られる住吉神社が並んで祀られています。