京都市伏見区深草坊町、洛南深草にある日蓮宗身延山久遠寺派の寺院。
開祖・元政上人にちなんで「元政庵 瑞光寺」といい、また上人が竹を好んだところから別名「竹葉庵」とも称します。
寺地は元々は平安初期に太政大臣・藤原基経が建立した極楽寺薬師堂の旧跡でしたが、「応仁の乱」により荒廃し竹の里となっていました。
この旧極楽寺の跡地に江戸初期の1655年(明暦元年)、元政上人が草庵を結んで日蓮宗の寺としたのが当寺のはじまりといいます。
庵の名は章安大師の故事にちなんで「称心庵」と名付けたといいます。
その後1661年(寛文元年)に称心庵の仏堂が完成すると、堂内に本尊・釈迦如来座像が安置され「瑞光寺」と改められました。
元政(げんせい 1623-68)は俗名を石井吉兵衛と称し、毛利輝元の元家臣・石井元好の五男として京都に生まれ、元々は彦根藩第2代・井伊直孝に近侍として仕える武士でした。
19歳の時に主君に従って江戸に出ますが、病弱のため京に戻り、母と共に泉洲和気の妙泉寺に詣で、祖師の像を拝して「出家せん、父母に孝養をつくさん、天台三大部を読了せん」の三願を立てたといいます。
その後数年井伊家に仕えた後26歳で出家し、妙顕寺第14世・日豊の門に入ります。
1655年(明歴元年)、33歳の時に師・日豊が大本山・池上本門寺(東京都大田区池上)に入寺したのを機に深草の当地に草庵を構え、門前にある日蓮宗には珍しい「不許酒肉五辛入門」の碑が示すように清貧の中で暮らします。
そして学問と詩歌に励んで多くの著作や詩文をものにし、北村季吟・熊沢蕃山・石川丈山・明人の陳元贇などの著名な文人墨客や宗内外の学者などと交流を結び、日蓮宗の宗学者、教育者として大きな功績を遺し、また詩人、文人としても著名になるなど、江戸初期の日蓮宗を代表する高僧となりました。
その一方で父母を引き取って孝養を尽したといい、その孝心は古人の句に「元政の母のあんまやきりぎりす」と謳われるほどであったといいます。
1667年(寛文7年)、母が87歳で他界すると、そのわずか2か月後の1668年(寛文8年)に後を追うように当地にて46才で没します。
現在、元政の墓は境内の西隅にあり、遺命によって3本の竹が墓標として植えられているだけの簡素なものとなっています。
その親孝行ぶりに感銘を受けたという水戸光圀は「鷲の山わけて得がたき道ぞとは、ふみみていまぞ思いしらるる」と墓標し「嗚呼孝子元政之墓」を贈ったといいます。
毎年3月18日の命日にはその遺徳を偲んで「元政忌」が執り行われ、遺宝展も公開されて多くの参拝者が訪れます。
また元政上人御廟についてはこの他にもお百度まいりをすると縁結び・縁切れのご利益があるとして有名です。
上人は元々は彦根藩の武士出身でしたが、江戸吉原で出会った高尾太夫の死をきっかけに武家との縁を断ち、強い縁を持って仏縁を結ばれた事から、上人の功徳を授かる事が出来るといいます。
現在の本堂・寂音堂(じゃくおんどう)は丸みを帯びた総茅葺きの屋根を持ち、上人の清貧の遺徳を偲ぶ草庵風の簡素な佇まいの建物で、また釈迦如来座像は中正院日護の作で、胎内に法華経一巻及び五臓六腑を形作ったものが納められているといいます。
この他の注目点としては境内の「白龍銭洗弁財天」が財運・金銭運のご利益にあやかれるとして人気。
一心にお祈りをしてザルにお金を乗せてご神体より流れ出る御神水で洗い、浄財袋に入れて大切に身につけると、財運・金銭運の幸運が授かれるとして人気を集めていて、縁日である「たつの日」「みの日」に参拝して浄財袋のお金を新しいものと入れ替えると更に良いとされています。
また境内は四季折々の花が美しいことでも知られ、中でも桜は隠れた名所となっており、中でも茅葺の本堂・寂音堂と桜のコントラストは見事で、多くの参拝者が写真撮影に訪れるといいます。