京都市伏見区深草宝塔寺山町、伏見稲荷大社の少し南にある日蓮宗の寺院。
旧本山は大本山妙顕寺で、山号は深草山(じんそうざん)。
寺伝によると平安中期の899年(昌泰2年)、関白・藤原基経(もとつね)が発願し、基経の没後にその嫡子・藤原時平(ときひら)が父の開運の旧地に真言律の僧・聖宝(しょうぼう)を開山に迎えて創建した「極楽寺(ごくらくじ)」が前身とされています。
代々藤原氏の外護を得て栄え、有名な紫式部の「源氏物語」の「藤裏葉」帖に寺名が言及されているほか、鎌倉時代には曹洞宗の開祖・道元も宇治に興聖寺を開く前に境内の安養院(あんにょういん)に住していたといわれています。
当初は真言宗の寺院ででしたが、鎌倉後期の1310年(延慶3年)、日蓮の法孫で京都で布教にあたっていた日像(にちぞう)が当時の極楽寺の住持・良桂(りょうけい)と法論を行った結果、日像に帰依するとともに日蓮宗へ改宗して法華の道場となり、「鶴林院」と改められました。
日像(にちぞう)は1294年(永仁2年)に日蓮の弟子としては初めて京都布教のため入京し、1334年(建武元年)に妙顕寺を開いて京都に宗門の礎を築いていますが、その基はこの寺院にあったといえ、そのためこの地には遺言により日像の廟所(びょうしょ)が置かれているほか、妙顕寺の歴代住持もここに埋骨されています。
その後、1467年(応仁元年)の「応仁の乱」や「「天文(てんぶん)の乱」によって多宝塔以外の伽藍は焼失。
長らく再建されませんでしたが、戦国時代の1590年(天正18年)、8世・日銀によって中興され、45年間かけて本堂はじめ諸堂を再興し、寺名も現在の「宝塔寺」に改められました。
寺名の由来は、日像が京都に入る7つの街道の入口「京都の七口」に建立した法華題目の石塔婆「題目石塔」の1つを日像の廟所に祀ったことによるものといわれています。
境内は室町時代1439年(永享11年)以前の建築で京都市に現存する中でも最古といわれる「多宝塔」をはじめ、本堂、四脚門(総門)などの国の重文指定の建物なども有する伽藍と7つの塔頭寺院で構成。
まず門前の室町中期建立の「四脚門(総門)」の周囲は隠れた桜の名所として知られ、そこから仁王門へと続く長い石段の参道は、両側を塔頭寺院が囲み、時代劇のロケにもよく使用される風情のある場所です。
次に朱塗りの色鮮やかな「仁王門」は江戸中期の1711年(宝永8年)の再建で、両脇を仁王像が守護し、大きな提灯の吊るされた天井には250枚もの牡丹絵画が飾られています。
そして荘厳な雰囲気の「本堂」は、1608年(慶長13年)の創建で、堂内に十界曼荼羅・釈迦如来立像及び日蓮・日像の像が安置されています。
更に本堂背後の「七面山(しちめんさん)」へ向かって伸びる長い石段の先には、1666年(寛文6年)に勧請された法華信仰を守護する七福吉祥の七面大明神(しちめんだいみょうじん)(七面天女)を祀る「七面堂」があり、そこからの眺めも見事です。
また石段の途中には芸能守護の神として、とても珍しい「都々逸(どどいつ)大明神」も祀られています。
近年外国人観光客などに人気の伏見稲荷大社のそばにありながら、観光寺院でないことから境内は人気も少なくゆったりと散策できるほか、市街地の見晴らしも良く、ちょっとした穴場スポットといえるお寺です。