京都市伏見区深草真宗院山町、京都市の南東にそびえる稲荷山の南西部・深草の地に伽藍を構える誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派の寺院。
山号は根本山で、本尊は阿弥陀如来。「西山国師(証空)遺跡霊場」の第11番札所
法然を宗祖とする浄土宗は法然の没後に門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じ、西山義、鎮西義、長楽寺義、九品寺義の「浄土四流」の流れが形成されるとともに、また親鸞の没後にその門弟たちは浄土真宗として別の流れを作り教団として発展させていきますが、その後浄土四流は更なる分裂や統合が繰り返された後、中世を通じて残ったのは西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団は「西山派」「鎮西派」と称することとなります。
両者の大きな違いとされているのが往生に対する考え方で、念仏する者のみが阿弥陀仏の極楽浄土に往生でき、念仏以外の諸行(善い行い)では往生できない、という念仏のみの一類の往生しか認めないことを「一類往生」といい、一方、念仏以外の諸行によっても往生ができる、という念仏と諸行の二類の往生を認めることを「二類往生(二類各生)」といい、西山派は一類往生、鎮西派は二類往生を説いているという大きな違いがあるといいます。
2派のうちまず「鎮西派」は法然の弟子の一人である聖光房弁長(べんちょう 1162-1238)を派祖とし、弁長の弟子・良忠(りょうちゅう 1199-1287)の時代に北条氏一門の大仏(おさらぎ)氏の帰依を受けて鎌倉に悟真寺を建てて勢力を伸張、良忠の没後に鎮西派は分裂し六派となるも、良忠の子・良暁(りょうぎょう 1251-1328)の白旗派が鎮西派正統を主張して鎮西派の興隆に尽くして以後は浄土宗の本流となっていき、江戸時代には江戸幕府を開いた徳川家康の手により手厚い保護を受けたことから大いに発展し、知恩院を総本山に東京の増上寺や京都の金戒光明寺(黒谷)、百万遍知恩寺、清浄華院などの大本山を擁する一大勢力となり、現在一般的に「浄土宗」と呼ぶ場合はこの鎮西派のことを指します。
一方の「西山派」は法然の有力な弟子の一人であった善恵房証空(西山国師)(しょうくう(せいざんこくし) 1177-1247)を派祖とする一派で、証空が法然の没後に山城国の西山善峯寺の北尾往生院(現在の三鈷寺)に住して宗旨の宣揚に尽力したことからその名で呼ばれるようになりました。
そして西山派も証空の門下の弟子によりそれぞれ西谷流(浄音)、深草流(円空)、東山流(証人)、嵯峨派(道観)の四流、更には聖達の弟子・一遍が開祖となった時宗に分かれた後、明治期の廃仏毀釈の混乱の中でいったんは浄土宗一つにまとめられたものの、1876年(明治9年)に西山派として分派されて浄土宗西山派を結成。
更に1919年(大正8年)には西山派の内部でもそれぞれの考えの違いから3つに分裂し、粟生光明寺を総本山とする「西山光明寺派(戦後に西山浄土宗)」、永観堂を総本山とする「西山禅林寺派」、そして誓願寺を総本山とする「西山深草派」の「西山三派」が形成され、戦時体制で一時期統合されたものの、戦後に再び3つに分かれて現在に至っています。
そして「真宗院」は鎌倉中期の1251年(建長3年)、西山派の派祖である証空(西山国師)に師事した円空立信(えんくうりゅうしん 1213-84)が、現在地より少し西南にあたる深草北陵(伏見区深草坊町)の南、深草山の麓に一宇を建立し創建したのがはじまり。
円空立信は清和源氏の一流で摂津源氏の多田氏の出身で、大和十市郡(現在の奈良県天理市)の住人で六條蔵人・源行綱の末孫として誕生した後、1227年(貞安元年)、15歳の時に三鈷寺の証空(西山国師)に20余年師事し、国師の没後の1248年(宝治2年)のある日、深草の里に遊錫した際にこの地が閑寂であることに心惹かれ、この山は永く息うに適した所であり、西を望めば證空の往生院(現在の三鈷寺)を遥拝することができ、日の没する様子を観て西方の極楽浄土を想うという日想観を修行するに適しているとし、証空(西山国師)から受け継いだ誓願寺に加えてこの地を浄土宗西山派深草流の根本道場としたといいます。
その後、円空の下には真空如円や顕意道教をはじめ多くの道俗の帰依者が集まって浄土の法門を精勤したため、第88代・後嵯峨上皇(ごさがじょうこう 1220-72)や第89代・後深草天皇(ごふかくさてんのう 1243-1304)からも厚い帰依を得て、中でも後深草天皇からは「真宗院」の勅号を賜るとともに1259年(正元元年)にはその詔によって諸堂が整備されて采石300石を賜っており、大いに栄えたといいます。
ちなみに後深草天皇はその崩御の後、境内の法華堂に遺骨が安置され、これが後に「深草北陵(十二帝陵)」となっていくのですが、後深草天皇の在位中は父親である後嵯峨上皇が院政を敷くとともに弟の第90代・亀山天皇(かめやまてんのう 1249-1305)を寵愛し治天の君としたことから後深草天皇が不満を抱くこととなり、やがて後深草系の「持明院統」と亀山系の「大覚寺統」の対立が生じるきっかけとなったといわれていて、深草北陵には後深草をはじめその子の第92代・伏見天皇、伏見天皇の子の第93代・後伏見天皇と歴代の持明院統系の天皇が葬られることとなります。
その後は幾度かの火災と再建が繰り返され、1467年(応仁元年)の「応仁の乱」で荒廃した後、江戸初期の1676年(延宝4年)に第34世・龍空瑞山が雑賀家の援助を受けて現在地に再興。
現在の本堂は龍空が再建した二重屋根の本堂が1915年(大正4年)に焼失した後、1931年(昭和6年)に再建されたもので、この他に三門、鐘楼は往昔のものですが、方丈は1988年(昭和63年)に全面修復が行われています。
また裏山の墓地には創建者である円空上人廟の五輪石塔、江戸中期の医師で日本で初めて官許を得て人体解剖を行ない、日本最初の解剖図誌「蔵志」を著したことで知られる山脇東洋(やまわきとうよう 1705-62)とその一族の墓などがあるほか、江戸後期の1785年(天明5年)に伏見奉行・小堀政方(こぼりまさみち 1742-1803)の圧政に対して伏見元町年寄の文珠九助ら7名が起こした「伏見義民一揆」の際には義民たちの密かな会合の場となったというゆかりの寺院でもあるといいます。