京都市伏見区深草ススハキ町、京都市南東の深草地区に位置し五条大橋東の伏見口から伏見へと南北に続く伏見街道(本町通・奈良街道)を南へ下がった伏見稲荷駅と藤森駅の間にある京阪本線の駅。
1910年4月15日の京阪電気鉄道(京阪)の京阪本線の開業に合わせて伏見稲荷大社の表参道の南にあることから「稲荷駅」として設置されたのがはじまり。
しかし開業から1年も経たない同年12月16日に当駅の一つ北側にあり伏見稲荷大社の北側に位置し神社の表参道までの距離はそれほど変わらない「稲荷新道駅」が「稲荷駅」と改称されて伏見稲荷の玄関口と位置づけられるようになり(後に「伏見稲荷駅」と改称)、当駅はこれに合わせて「深草駅」と改められました。
その後、1943年(昭和18年)10月に戦時中の企業統合政策によって、京阪電気鉄道が阪神急行電鉄(現在の阪急)と合併するといったんは阪急の駅となりましたが、戦後の1949年(昭和24年)12月に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が再び分離独立すると、再び京阪の駅となっています。
また駅名については長らく深草駅として親しまれていましたが、2011年(平成23年)から深草駅の安全性向上を目的に協議を重ねた結果、新駅舎への建て替えとともに駅名も変更されることとなり、2019年(令和元年)10月1日、歴史ある深草の地名を残しつつ、駅のすぐ西に1960年(昭和35年)の設置より深草キャンパスを持ち創立380年を迎えた龍谷大学の大学名を冠した「龍谷大前深草駅」に改められ現在に至っています。
島式2面4線のホームを持つ橋上駅で、駅舎は1971年(昭和46年)に橋上化された後、2016年(平成28年)3月末にバリアフリー化に合わせて新たな新橋上駅舎に建て替えられたもので、改札口は橋上に1か所のみで東西に出入口があります。
この点、駅の西側を中心とした深草一帯は、明治以降には旧陸軍の「第16師団」が設置され軍都として栄えた場所でした。
「師団」とは軍隊の部隊編制単位の一つで、独立し作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位を表す言葉で、1904年(明治37年)の「日露戦争」で既存の師団総てが動員されたため、本土に駐留する師団がなくなる事態となり、国の軍拡政策によって新たな師団の創設が決定し、深草の地にも急ぎ用地買収が行われた後、1908年(明治41年)に第16師団が設置されています。
第二次大戦が終戦を迎えると師団は廃止されることとなり、その旧地は司令部庁舎が京都聖母女学院の本館として活用されることとなったほか、駅の西側を南北に走る師団街道の西側の師団練兵場の跡地が北側が京都府警察学校、そして南側が龍谷大学の深草キャンパスやの敷地となり、また当駅より更に南にある歩兵連隊の置かれていた場所には京都教育大学のキャンパスが建てられるなど、現在深草の地はかつての軍都から多くの大学がキャンパスを構える「大学の街」へと様変わりしています。
もっとも前述の司令部庁舎のほか、師団街道・第一軍道・第二軍道・第三軍道として名残りをとどめる道路の名前や、琵琶湖疏水に架かる師団橋にに刻まれた陸軍の五芒星のマークなど、現在でも戦争の遺跡が残されていて往時を偲ぶことができます。
また駅の西側には開業当時から併設・使用されていた深草車庫があり拠点駅となっていましたが、1980年(昭和55年)3月の淀車庫が完成したことにより現在は廃止されています。
一方、琵琶湖疏水に架かる深草橋を渡った駅の東側は、駅前に数軒並ぶ飲食店の先に伏見街道(本町通・奈良街道)が琵琶湖疏水とへ移行するように南北に通り、このうち北側へ進むと徒歩約5分ほどでJR稲荷駅および伏見稲荷大社に到着することができます。
また伏見街道の東を通るJR奈良線の踏切を渡った先には江戸時代の画家・伊藤若冲の下絵をもとに造られたという五百羅漢の石仏があることで知られる「石峰寺」や京都最古の多宝塔の残る「宝塔寺(七面山)」があるほか、その南には「瑞光寺(元政庵)」や「嘉祥寺(深草聖天)」、「真宗院」などの深草の名刹が点在しており、深草のスポットめぐりには利便性の高い駅となっています。