京都府乙訓郡大山崎町円明寺松田、大山崎中学校の西側、京都縦貫自動車道の高架下にある「本能寺の変」の後、羽柴秀吉と明智光秀が激突した天下分け目の天王山の戦い「山崎の戦い(山崎合戦)」の舞台となった合戦跡とそこに整備された公園。
織田信長による天下統一が目前に迫っていた1582年(天正10年)6月2日、毛利攻めの総仕上げに向かうため京・本能寺に滞在していた信長を丹波亀山城主で家臣の明智光秀が急襲した「本能寺の変」によって、手勢僅かであった信長は紅蓮の炎の中で自刃して亡くなり、この変によって光秀は一躍ポスト信長の最右翼に躍進したかに思えました。
ところが「信長死す」の報せは、翌6月3日には備中高松城で毛利の先鋒・清水宗治と退治していた羽柴秀吉の元にも届いており、秀吉は軍師・黒田官兵衛の進言によって戦を収めるため毛利との講和を急ぎ、城主の切腹・開城を条件に和睦を固めることに成功。
毛利の主力が引き上げるのを確認すると、世にいう「中国大返し」により、山陽道、西国街道を1日に50キロ以上を移動して京へ向けて進軍を開始します。
一方の光秀は京周辺の武将に同心・合力を求め書状を送りますが応じる武将は少なく、娘の玉(ガラシャ)が嫁ぎ縁戚関係にあった丹後の細川藤孝・忠興父子にも断られたほか、盟友であった大和郡山の筒井順慶も秀吉側についたため、十分は兵を集めることができませんでした。
そうこうしている間に秀吉軍は6月12日には摂津富田に進行し、京・近江を制圧した光秀軍は秀吉が京を目指して兵を移動させていることを知ると兵を摂津・河内境へと進め、京から桂川を渡り、長岡・勝龍城付近に主力を展開します。
そして6月13日午後4時頃、大山崎荘の町場外れを流れる円明寺川(現在の小泉川)を挟んで羽柴秀吉軍3万6千、明智光秀軍1万5千の軍勢が対峙し、午後4時半頃に有名な「山崎合戦」の火蓋が切って落とされます。
高山右近や中川清秀、池田恒興ら摂津にいる主要な武将を味方に付け、軍勢に勝る秀吉軍は一方的に攻め、わずか1時間余りで圧勝し、大山崎の住民たちは合戦の戦禍に巻き込まれることはなかったといいます。
敗れた明智の兵は方々に四散し、光秀も本陣背後の勝龍寺に一時退去、夜陰に乗じ僅かな手勢を伴って近江坂本への逃亡を図りますが、桃山丘陵を越えた小栗栖で土民の襲撃を受け、光秀は竹槍に掛かり、あっけない形で乱世の戦いに明け暮れたその生涯に終止符を打ちました。
一方勝利を得て一躍信長の後継者として名乗りを上げた秀吉は、その後、天王山頂から山麓に山崎城を築城し、大山崎から天下統一を目指していくことになります。
この「山崎の戦い」は天下分け目の天王山とはいうものの、実際は山の上での闘いではなく、戦場となったのは天王山東側の淀川に近い湿地平野だったといわれていて、円明寺川、現在の小泉川を挟んで秀吉軍と光秀軍が対峙したと伝わっています。
以前は大山崎中学校の正門に向かって左横に山崎合戦古戦場の石碑があるのみでしたが、現在はそれよりやや西の小泉川の東の川沿いに京都縦貫道の高架を屋根代わりにして「天王山夢ほたる公園」として整備されています。
「天王山夢ほたる公園」は2015年(平成27年)5月16日に新たに完成した公園で、京都縦貫自動車道の2本の橋桁を仕切りに見立てて3つのゾーンで構成されています。
「歴史の広場」には「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と記された「山崎合戦古戦場跡」の碑が建立され、公園から天王山を仰ぎ見ることができ、「子どもの広場」にはアスレチック風のコンビネーション遊具やすべり台や雲梯のついた複合遊具、砂場などがあり、子供や家族連れが楽しめる憩いの場とされ、そして「多目的広場」には音楽ステージが整備されてイベント会場としても利用できるように設計されています。
この点、遊具のある場所はちょうど高架下のため道路が屋根になって急な雨でも濡れることもなく、小さな子供も楽しく遊ぶことができ、園内多目的トイレにはベビーシートも設置してあるなど行き届いた設計で、更に3台ほどですが駐車場も用意されています。
また石碑の付近では、大山崎町観光スマートフォンアプリにて合戦の様子を紹介した動画を楽しめるなど、IT化に合わせた取り組みも行われているといいます。
この他にも近隣には北の長岡京側には明智光秀本陣跡と伝わる「境野一号墳」や「恵解山古墳公園」、合戦で敗れた光秀が逃げ込んだとされる勝龍寺跡に整備された「勝竜寺城公園」があるほか、東の大山崎側には「天王山」にハイキングコースが整備され、秀吉が陣を敷いたとされる「宝積寺(宝寺)」や山中には古戦場が一望できる「旗立松展望広場」などもあり、合わせて巡るのもおすすめです。