京都府長岡京市東神足、以前は「神足駅」と呼ばれていたJR長岡京駅のやや南、勝竜寺城公園の北東に鎮座する神社で、旧神足村の産土神。
創建年代は不詳ですが、桓武天皇が784年(延暦3年)に奈良から長岡京に都を移した際に田村にある池の上に神様の足が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでいる夢を見たといい、目を覚ました天皇は田村の地に社を建てて神を祀り、太刀と絹を奉納したのがはじまりで、以後この社は「神足神社」、田村の地は「神足村」と呼ばれるようになったという伝説が伝えられています。
そして796年(延暦15年)に桓武天皇が勅祭したとも伝わるほか、文徳天皇の854年(斉衡元年)に国の官社に挙げられていることから、それまでには創建されていたと考えられ、その後平安中期の927年の「延喜式神名帳」では乙訓19座の一つとして式内社に比定されており、このことからも古い歴史を持つことが窺い知れます。
また一説には神足家の祖である神足光丸が、桓武天皇の遷都に伴って長岡に移り住んで神社の創建に尽力したとも伝わっており、鎌倉期以降は国人となった神足氏の氏神、また神足村の産土神として信仰されました。
ちなみに神足家は奈良時代の皇族で、初祖・神足光丸は天武天皇の皇子・長親王の後裔ともいわれ、南北朝期に神足信朝(信友)が足利直義の警固役として登場して以後は小塩庄の下司職を世襲するなど勢力を拡大。
室町時代には幕府の御家人として取り立てられた後、幕府の西岡被官衆の一人となり、戦国期には神足城を本拠とし周辺を支配していましたが、1568年(永禄11年)に織田信長が上洛し細川藤孝が勝龍寺城に入ると細川氏に従い、戦乱を生き抜いた後は細川氏が大名となった九州の天草の地に移ったといいます。
元々は現在よりもやや西側に位置していましたが、1872年(明治5年)に東海道本線の建設のため、やや東に遷座し現在に至っています。
祭神についても不詳とされていて、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)の天孫降臨に随伴した32神の1神で、船長の役割を務めたという天神立命(あめのかみたちのみこと)とも、また天武天皇の子で「日本書紀」の編纂の最高責任者であり、日本最初の学者としても知られる舎人親王(とねりしんのう)とされています。
神足村の産土神として地域の安全や子孫繁栄が祈願されているほか、近年は「神足」という名にあやかって強脚や足の怪我予防のご利益を授かろうとスポーツ選手などから信仰を集めているといい、毎年京都の都大路を舞台に開催される「都道府県対抗全国女子駅伝」の京都チームやサッカーJリーグの京都サンガの選手たちが御守りを身につけて試合に臨んでいるといいます。
行事としては6月5日の「例祭」のほか、5月3日(神幸祭)および5月5日(還幸祭)の「春季大祭(氏子祭)」では先太鼓、鼓笛隊、猿田彦、稚児、獅子舞などの行列のほか、御輿の出御があり御旅所である神足公民館までを練り歩きます。
また一帯は戦国時代には細川藤孝が入城した勝龍寺城があった場所で、神社の南西の勝龍寺城跡には現在桜の名所としても知られる勝竜寺公園が整備されていますが、神社の境内の西側には細川藤孝が1571年(元亀2年)に城の大改修の際に造営したと考えられる勝龍寺城の空堀や土塁跡が遺構として残されています。
1582年(天正10年)6月に「本能寺の変」を起こしたあ結光秀は羽柴秀吉と天王山で戦った「山崎の合戦」に敗れると、いったんは勝竜寺城に逃げ込みますが、勝龍寺城の北門から続いていたというこの土塁を伝って本拠地である近江の坂本城に逃れようとし、その途中、山科の小栗栖の竹藪で農民の竹槍にかかり無念の最後を遂げており、戦国武将・明智光秀の最後の足跡を辿るのに重要な史跡の一つとされています。
その他にも近年の調査で新たに土塁の下から6世紀後半の方墳である「神足古墳」が確認されており、一帯は古くより開かれた地域で縄文時代の遺跡や弥生時代の石剣や管玉なども出土している地域でもあることから、神社の前身も長岡京への遷都よりも更に古い古墳時代後期まで遡る可能性があるとも考えられています。
現在は長岡天満宮の兼務神社の一社となっており、御朱印は長岡天満宮で授与していますが、「乙訓鎮座神社巡り」の一社であることから、期間中の1月は社務所にて授与が行われているそうです。