京都府乙訓郡大山崎町、山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった標高270mの「天王山」の南側の中腹にある真言宗智山派の寺院で、「宝寺(たからでら)」の略称で知られています。
山号は天王山または銭原山、本尊は十一面観音。
鎌倉時代の1232年(貞永元年)の火災で焼失しているため、それ以前の寺史はあまり明らかでないといいますが、寺伝によると奈良時代の724年(神亀元年)、聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願により行基(ぎょうき)が開創。
聖武天皇が龍神から請来された如意御神器「打出」と「小槌」を祀るために創建したと伝わっています。
その後、長徳年間(995-99)に寂照が中興し、また藤原定家の日記「明月記」には1202年(建仁2年)に彼が宝積寺を訪れたことが記されているといい、更に室町初期には八幡宮油座からの寄進も多くあり寺運は大いに盛り上がったといわれています。
1582年(天正10年)に羽柴秀吉と明智光秀が戦ったいわゆる天下分け目の天王山「山崎の合戦」の際には秀吉の本陣が置かれ、合戦の後は山崎城の一部として利用され、「宝寺城」とも呼ばれたといい、このため秀吉が山崎の合戦の勝利を記念として一晩で建設したといわれる「三重塔」や、秀吉が腰かけたとされる「出世石」などのゆかりの史跡も残されています。
更に幕末の1864年(元治元年)に起きた「禁門の変」においては、会津勢と戦い敗れた真木和泉守(まきいずみのかみ)を始めとする尊皇攘夷派の十七烈士らの陣地が置かれた場所であり、17名の墓もあるといいます。
聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから、地元では「宝寺」(たからでら)の別名で親しまれており、また本堂左横にある小槌宮には七福神の大黒天がまつられ、「大黒天宝寺」として商売繁盛のご利益でも知られているます。
また打出と小槌で参詣者に福徳を授けてくれるだけでなく、「宝寺」の名前から近年は金運アップのパワースポットとしても有名になりました。
この他に文化財を多く収蔵しており、まず建造物では「本堂」「山門」が府の重要文化財。
また参道沿いにある「三重塔」は、秀吉が山崎の合戦の際に一夜にして建てたといわれ、美しい桃山建築様式を今に伝えるものとして国の重要文化財に指定されています。
更に特に貴重な寺宝の仏像が多いことで知られ、鎌倉時代の傑作といわれる本尊・十一面観音菩薩立像のほか、
「鎮守社」に板絵着色神像(鎌倉後期)、
「山門」に金剛力士像2躯(鎌倉時代)、
「閻魔堂」に閻魔王坐像および眷属の司録・司命坐像(しめいざぞう)を安置。
また京都国立博物館に寄託の倶生(ぐせい)神・闇黒(あんこく)童子坐像(鎌倉時代)などもあり、いずれも国重要文化財。
行事としては毎年4月18日開催の「大厄除追儺式(やくよけついな)」は別名「鬼くすべ」とも呼ばれ、奇祭として有名。
悪い鬼を煙でいぶし出して災厄を払ういわゆる「追儺式(ついな)」ですが、鏡餅に写った自分の姿を見て鬼が退散するのが独特で、儀式の後には餅まきも行われて大勢の参拝者で賑わいます。