京都府長岡京市勝竜寺、JR長岡京の東口からガラシャ通りを南へ700mほど進んだ所にある公園。
「勝龍寺城」は南北朝時代の1339年(暦応2年)、室町幕府を開いた将軍・足利尊氏の命により南朝方に備えて京都を防御する城として細川頼春が築城したといわれ、名前は現在公園より南へ約150mの位置にある弘法大師空海が806年に開いたと伝わる古刹「勝龍寺」から名付けられたといわれています。
乙訓地域は「西岡(にしのおか)」とも呼ばれ、山陰・山陽へと至る「西国街道」が南北に通り、また山陽道から京都へと通じる「久我畷(こがなわて)」とが交差する場所で、古くから京都の南西部を守る天王山に次ぐ要衝の地として南北朝時代以降、数多くの戦いの場となってきました。
1467年(応仁元年)の「応仁・文明の乱」では西岡地方における西軍・畠山義就の拠点となり、戦国時代には松永久秀や三好三人衆が治めていましたが、1568年(永禄11年)、15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した織田信長は家臣の柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚らに命じて、三好三人衆の岩成友通が守る勝竜寺城を攻撃。更に上洛を果たした信長が5万の兵を率いて勝竜寺城の攻城に向かったことから、勝竜寺城は降伏・開城。
その後1571年(元亀2年)に信長から城を与えられた細川藤孝によって城の大改修が行われて二重の堀を持つ頑強な城となり、槇島城と並ぶ信長の山城国支配の拠点となりました。
その一方で1578年(天正6年)には戦国武将・明智光秀の三女・玉(後の細川ガラシャ)が、信長の命により藤孝の長男・細川忠興に16歳で嫁いだ際に輿入れした城としても有名で、二人は新婚時代の2~3年間をこの地で幸せに過ごしたといいます。
細川家はその後1581年(天正9年)に丹後国・宮津城へと移ったため、勝竜寺城には京都所司代・村井貞勝の家臣・矢部善七郎、矢部猪子兵助が城代として入城。
そして1582年(天正10年)の「本能寺の変」の後には光秀がその支配下に置き、天下分け目の天王山「山崎の合戦」においてはこの城を背に本陣を構えるますが、「中国大返し」で勢いづく羽柴秀吉に大敗を喫します。
光秀はいったんは勝龍寺城に退却したものの、本拠地・坂本城へと戻るため北門から逃亡を図りますが、最後は山科・小栗栖の明智薮にて落ち武者狩りに遭遇し、あっけなくその生涯を閉じ、また玉も謀反人の娘として幽閉されるなど、忠興との関係も勝龍寺城にいた頃とは状況が一変し、その後は波乱の生涯を送ることとなります。
一方、勝龍寺城は1589年(天正17年)に秀吉による淀城(淀古城)の修築の際に石材が使用されるなどして荒廃した後、江戸初期の1633年(寛永10年)、山城国・長岡藩主となあった永井直清(1649-71)が荒廃していた城の修築を行おうとしますが、江戸幕府から堀を触らずに城の北に屋敷を作るよう命じられたため、同年7月に現在のJR長岡京駅東口付近に「神足館」を建造しています。
そして1649年(慶安2年)、直清の摂津高槻藩への転封に伴って廃城となりました。
現在周辺一帯は東海道本線や阪急京都線、国道171号線が南北に貫き、京都市内や大阪への交通の便が良いこともあって、1960年前後から急激に宅地化が進んだ地域となっています。
勝龍寺城は江戸初期に廃城されたため、建物などは現存していませんが、現代に入り勝龍寺城の本丸および沼田丸跡に都市公園として「勝竜寺城公園」が整備され、1987年(昭和62年)に整備着手の後、1992年(平成4年)に開園しています。
1.4haの敷地には1988年(昭和63年)の城跡の発掘調査で発見された曲輪、堀、空堀、土塁の遺構が保存され、遺構について記された駒札が随所に立てられるとともに、大手橋、城門、多聞櫓、板掘などの模擬建造物も建造されて往時の面影を今に伝えています。
そして城の天守閣の外観をした管理棟は1階が休憩所、2階が資料展示室となっており、無料で利用・見学できるほか、公園内には「ガラシャのおもかげの水」と名付けられた地下水100%の水道水が利用できる施設が、公園内の庭園と公園外の沼田丸の2か所に設置され、多くの地域住民に親しまれています。
整備の行き届いた園内の堀や公園内の池には錦鯉がゆったり泳ぎ、緑も美しく景観は抜群で、2007年(平成19年)2月には「日本の公園百選」にも選ばれています。
春は桜の名所としても有名で、公園を囲む土塁の桜並木のほか、園内中央の庭園にもソメイヨシノや枝垂桜が咲き乱れ、夜間ライトアップも行われています。
その他にも9月には「名月の宴」、毎年11月第2日曜日には「長岡京ガラシャ祭り」が盛大に開催されることでも知られています。
ガラシャ祭りは1992年(平成4年)に勝竜寺城公園が整備されたのを機に、玉の輿入れ行列を再現しようという市民の声を受けて始められたもので、玉が細川忠興に輿入れする様子を再現した「お輿入れ行列」のほか、古墳時代から江戸時代までの有名な歴史上の人物が登場する「歴史文化行列」や「町衆祝いの行列」など、総勢約1000人が市内を練り歩くほか、直前の1週間は「ガラシャウイーク」として、市内各所で様々な催しも行われます。