「恵解山古墳」は京都府長岡京市勝竜寺・久貝、京都府南部、桂川と宇治川、木津川の三川の合流点東北の平野部に広がる乙訓地域に築かれた古墳。
古墳時代中期の5世紀前半頃、桂川右岸の標高わずか16mの台地の端に造られ、形は前が四角形(方形)、後ろが円形で空から見ると鍵穴の形をした「前方後円墳」となっています。
その大きさは全長約128m、後円部の直径約78.6m、高さ10.4m、前方部の幅約 78.6m、高さ約7.6mと推定され、山城地方では3番目、乙訓地域では最大の前方後円墳であるといい、周囲に幅約30mの周濠があり、周濠を含めた古墳の全長は約180mに及ぶといいます。
古墳は3段に築かれ、造られた当時は斜面全体に砂岩やチャートなどの葺石がふかれ、各段の段丘と頂部の平坦な部分には蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)が並べられていました。
そして後円部は古くから墓地として利用されているため詳細は明らかになっていませんが、内部主体は失われているものの死者を埋葬した竪穴式石室があったとみられています。
戦国時代には城が築かれ、江戸期以降は墓地になるなど、現代に入るまでは人知れず埋もれていましたが、1980年(昭和55年)に当初から古墳の上にあった墓地拡張工事の際に付近からで鉄器が出土したため、長岡京市教育委員会が緊急調査を行うこととなり、調査の結果、前方部の中央にあたる部分から刀剣や槍、矢尻など約700点にも及ぶ大量の鉄製武器を収めた副葬品埋納施設があることが判明。
このような多量の鉄製武器が出土した例は山城地方ではもちろんのこと全国的にも珍しいといい、希少な古墳であるとして1981年(昭和56年)10月13日に「恵解山古墳」として国の史跡に指定。また鉄製武器などの出土品の方も1999年(平成11年)に京都府指定有形文化財にそれぞれ指定されています。
この点、被葬者は現在のところ不明ですが、その規模や構造から5世紀前半頃に桂川以西の乙訓全域を支配した実力者の築いた古墳であると考えられています。
その後、このような郷土の貴重な遺産を後世に伝え、まちづくりに活用するために恵解山古墳の復元整備が計画され、2003年(平成15年)から2013年(平成25年)まで保存整備に向けた発掘調査が進められた後、2014年(平成26年)10月26日に史跡公園「恵解山古墳公園」として開園。
斜面の一部には「葺石」を敷き詰め、平坦面には約650点の埴輪を並べた「埴輪列」を再現するなど、造られたとされる5世紀前半の美しい姿に復元されたほか、古墳の復元模型や乙訓地域の地形模型、出土品の写真模型などが展示され、周辺にはベンチやあずまやも設置されて、のんびりと休憩しながら古墳を眺めることもでき、新たな市民の憩いの場となっています。
また2016年(平成28年)3月1日には「天皇の杜古墳」「恵解山古墳」「寺戸大塚古墳」の3件を統合し、これに他の古墳8基を追加指定のうえ、史跡指定名称が「乙訓古墳群」に変更されました。
更に近年になって1582年(天正10年)に本能寺の変の後、羽柴秀吉と明智光秀が戦った「山崎の戦い」において明智光秀が本陣を置いたとされる「御坊塚」が、従来有力であった「境野1号墳」ではなく、この古墳である可能性が高いとして注目を集めています。
発掘調査で当時の土器片とともに火縄銃の鉛弾が出土したほか、後円部にある現在の墓地が棚田状に3段になっていることや、前方部に大きな掘り込みがあることが、光秀が恵解山古墳に陣を置いた際の造作である可能性があるとのことで、更なる調査が待たれる所です。