京都府京都市右京区嵯峨水尾宮ノ脇町、京都市街地から十数キロ、JR山陰線の保津峡駅より府道50号を北へ3kmほど進んだ愛宕山の南西麓の愛宕山を源とする水尾川流域に位置する山間の集落。
「水尾(みずお)」は「きれいな水の湧く所」という意味で、古くは「水ノ尾」「水雄」と書き「みずのお」「みのお」などと呼ばれていましたが、集落の位置が清滝川の川尻にあたることから「水尾」という表記になったといわれています。
山城と丹波の両国を結ぶ要所にあたることから早くから開けた地で、東の八瀬・大原に対して、西の清浄幽邃境として、大宮人の隠れ里としてよく知られていたといいます。
清和天皇(せいわてんのう 850-880)は平安初期の天皇で第55代・文徳天皇(もんとくてんのう 826-58)の第4皇子で、母は太政大臣・藤原良房(ふじわらのよしふさ 804-72)の娘・明子(ふじわらのめいし(あきらけいこ) 829-900)。
諱(いみな)は「惟仁親王(これひとしんのう)」といい、外祖父である藤原良房の後見の下、惟喬親王を退けて皇太子となり、858年(天安2年)に父・文徳天皇が亡くなるとわずか9歳で即位しますが、幼少であったため良房が実権を握ることとなり、866年(貞観8年)の「応天門の変」の後は良房は摂政となり、人臣摂政の例を開いて、これにより藤原氏の全盛期が始まったともいわれています。
成人後も政治的な実権はほとんどないまま、876年(貞観18年)、27歳の時に第1皇子であるわずか9歳の貞明親王(第57代・陽成天皇)に譲位。
後に第6皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の子である孫の経基王(六孫王)が臣籍降下により源氏の姓を賜り「源経基(みなもとのつねもと ?-961?)」と名乗ったことが、後世に武門の棟梁として源頼朝などを輩出することとなる「清和源氏」のはじまりであることから、清和源氏の祖として名を残しています。
そして清和天皇は退位の3年後の879年(元慶3年)に30歳で出家しており、その後、仏道修行のために山城や大和、摂津などの近畿各地の霊場を巡った後、最後に立ち寄ったのが丹波国の水尾の水尾山寺であったといいます。
清和天皇は都からさほど距離がないにもかかわらず豊かな自然に囲まれ、外界のしがらみとは無縁な閑雅静寂のこの地をいたく気に入ったといい、水尾を自らの隠棲・終焉の地と定め、里人も感激し天皇のために新しい仏堂を建立することとなり、完成まで一時嵯峨の源融の別邸・棲霞観(せいかかん)(現在の清凉寺)に移りますが、ほどなく病を発して当時は粟田山荘にあった落飾の地である円覚寺に還御し、880年(元慶4年)12月4日にて31歳の若さで崩御となります。
御陵はその遺言によって水尾山上の中腹に「清和天皇水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)」として造られ、また嘆き悲しんだ里人たちは建立した仏堂に天皇を祀るとともに、生母・染殿皇后が崇拝したという四所明神を合祀して「清和天皇社」とし、1100年以上経った現在も氏神様として里人たちを見守り続けています。
また清和天皇が亡くなった地である洛東の円覚寺は1420年(応永27年)に焼失の後に水尾山寺が円覚寺の寺名を継承しており、その後、水尾の円覚寺は1679年(延宝7年)の大火で焼失しましたが、およそ100年後の1776年(安永5年)に再建されています。
近世には丹波国と山城国を結ぶ道は老ノ坂峠(現在の国道9号)越えと水尾越えの二者択一しかなかったため、水尾は都と丹波を結ぶ交通の要所として繁栄、沿道には茶屋や宿、お土産物屋などが立ち並び、人口が1,000を超えることもあったとされます。
しかし江戸期の1679年(延宝7年)と1835年(天保6年)の2度にわたる大火や、保津川の舟運の発展、更には1900年(明治33年)の京都鉄道、現在のJR山陰本線が京都から水尾を外れ亀岡盆地を通って園部までをつなぐ形となったことなどを受けて戸数は減少していき、1936年(昭和11年)に水尾の玄関口となる山陰本線「保津峡」駅(現トロッコ保津峡駅)が開業したものの、その後も高齢化による人口減少と過疎化が進んでいて、2010年(平成22年)の国勢調査で27世帯・56人が暮らす秘境の地となっています。
行政区画的には「水尾村」から1889年(明治22年)に町村制が施行されると水尾村など5村が合併して「嵯峨村」の一部となり、1923年(大正12年)に町制を施行されると「嵯峨町」、そして1931年(昭和6年)に京都市に編入され現在は右京区の一部となっています。
現在の水尾は「柚子の里」とも称されるようにとりわけ「柚子(ゆず)」の産地としてよく知られています。
柚子は人気のミカン属の常緑小高木で、中国の揚子江上流が原産といわれ、日本には奈良時代か飛鳥時代に渡来したと考えられ、当時は薬用などの用途で用いられていたといいます。
現在はビタミンCが豊富で健康にも良い柑橘類の1つとして食用にも多く用いられ様々な加工品が生産されているほか、冬至の日に「ゆず湯」に入ると1年中風邪をひかないといわれるように風呂に浮かべて「ゆず湯」として楽しむのも習慣になっています。
栽培が始まったのは14世紀初頭、鎌倉後期に在位した第95代・花園天皇(はなぞのてんのう 1297-1348)が水尾の地に植えたのがはじまりとされていて、そのため水尾は「柚子栽培発祥の地」ともいわれ、水尾では現在も梅とともに地域の主産物の一つとなっています。
現在は高知県や埼玉県などでも多く栽培されているといいますが、柚子を栽培するのに最適な寒冷な気候ときれいで豊富な水資源を有する水尾では、実生(みしょう)といってカラタチなどの台木を使い接ぎ木で育てたものではなく、種から育ち15~20年かけて大きくなった原種の柚子が今なお数多く残っており、他の温暖な地域で栽培された柚子よりも実は大ぶりで一段と香り高く、爽やかな酸味と濃い味が特徴。
江戸時代には「水尾の柚子」として都で珍重され、昭和40年代に改めて「柚子の里」として知られるようになり、現在は高級食材として京都や関西だけでなく関東の高級料亭や有名菓子屋などでも重宝されている存在です。
水尾の山里では畑や道端など至る所に柚子の木が植わっていて、毎年5月~6月頃に白色の花を咲かせた後、夏頃から実が育ちはじめ、11~12月にかけ各家の軒先には箱からあふれんばかりの柚子が収穫され、秋の収穫時期に集落に入れば歩いているだけで柚子の香りが漂ってくるかのごとく、里全体が爽やかな香りに包まれます。
収穫された柚子は近くの加工場で地域の人たちの手により柚子茶や煮柚子、柚子菓子、柚子味噌など様々な加工食品の材料として使用され、店先にたくさん並べられるほか、柚子の収穫時期である10月下旬から4月頃にかけゆず農家の自宅で「ゆず風呂(柚子湯)」と丹波地鶏を使用し柚子を搾って頂く「鶏鍋(水炊き・鶏すき)」のおもてなしを受けることができます。
元々は昔ながらの山里の風景や特産の柚子を堪能してもらおうと村おこしの一環として昭和30年代に始められたものといい、現在は9軒の民家で受け入れを行なっていて、里に帰ったかのような温かいもてなしを受けることができます。(要予約・宿泊不可)。
また近年は9月下旬~10月上旬にかけ、休耕田を活用して秋の七草の一つである藤袴(フジバカマ)を鑑賞する「水尾フジバカマ鑑賞会」を開催していて、満開のフジバカマの中を長距離を移動する渡り蝶であるアサギマダラが舞う幻想的な姿が人気を集め、晩秋の柚子と並ぶ新たな風物詩として定着しています。