京都市右京区嵯峨水尾宮ノ脇町、柚子(ゆず)や樒(しきみ)の郷として知られる水尾(旧清和村)地区で氏神として祀られている神社。
祭神は本殿二棟に第56代・清和天皇(せいわてんのう 850-880)および水尾の最初の氏神と伝えられる四ヶ所の神を祀る摂社・四所神社が祀られています。
とりわけ清和源氏の祖として知られる平安初期の第56代・清和天皇(せいわてんのう 850-80)が後世の人々から「水尾天皇」と呼ばれるほどにこよなく愛したゆかりの地として知られています。
清和天皇(せいわてんのう 850-880)は平安初期の天皇で第55代・文徳天皇(もんとくてんのう 826-58)の第4皇子で、母は太政大臣・藤原良房(ふじわらのよしふさ 804-72)の娘・明子(ふじわらのめいし(あきらけいこ) 829-900)。
諱(いみな)は「惟仁親王(これひとしんのう)」といい、外祖父である藤原良房の後見の下、惟喬親王を退けて皇太子となり、858年(天安2年)に父・文徳天皇が亡くなるとわずか9歳で即位しますが、幼少であったため良房が実権を握ることとなり、866年(貞観8年)の「応天門の変」の後は良房は摂政となり、人臣摂政の例を開いて、これにより藤原氏の全盛期が始まったともいわれています。
成人後も政治的な実権はほとんどないまま、876年(貞観18年)、27歳の時に第1皇子であるわずか9歳の貞明親王(第57代・陽成天皇)に譲位。
後に第6皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の子である孫の経基王(六孫王)が臣籍降下により源氏の姓を賜り「源経基(みなもとのつねもと ?-961?)」と名乗ったことが、後世に武門の棟梁として源頼朝などを輩出することとなる「清和源氏」のはじまりであることから、清和源氏の祖として名を残しています。
そして清和天皇は退位の3年後の879年(元慶3年)に30歳で出家しており、その後、仏道修行のために山城や大和、摂津などの近畿各地の霊場を巡った後、最後に立ち寄ったのが丹波国の水尾の水尾山寺であったといいます。
清和天皇は都からさほど距離がないにもかかわらず豊かな自然に囲まれ、外界のしがらみとは無縁な閑雅静寂のこの地をいたく気に入ったといい、水尾を自らの隠棲・終焉の地と定め、里人も感激し天皇のために新しい仏堂を建立することとなり、完成まで一時嵯峨の源融の別邸・棲霞観(せいかかん)(現在の清凉寺)に移りますが、ほどなく病を発して当時は粟田山荘にあった落飾の地である円覚寺に還御し、880年(元慶4年)12月4日にて31歳の若さで崩御となります。
御陵はその遺言によって水尾山上の中腹に「清和天皇水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)」として造られ、また嘆き悲しんだ里人たちは建立した仏堂に天皇を祀るとともに、生母・染殿皇后が崇拝したという四所明神を合祀して「清和天皇社」とし、1100年以上経った現在も氏神様として里人たちを見守り続けています。
この点、摂社・四所神社は長岡京造営時に藤原氏が奈良・春日大社の春日大神4柱を勧請して創建した洛西・大原野神社を清和天皇の生母・染殿皇后(藤原明子)が信仰し、天皇の出生を祈願されていたことから、これを偲んで水尾の内庭に祀ったものだといわれています。
また神社に伝えられている神輿は、ある皇女が丹波国北桑田郡弓削村、現在の右京区京北町に猪や鹿の害があると聞き、水尾までは輿で来て、水尾からは駕籠に乗り換えて弓削村へ向かい害獣を退治したといい、水尾ではその時に残された輿を台にして神輿にしたと伝わっていて、神社の例祭である5月3日には宮座の古老と職事役、氏子総代、戸主一同が参詣して神輿を飾り付けが行われるといいます。