京都市左京区吉田下大路町、吉田山西斜面の、真如堂(真正極楽寺)と相対する位置に鎮座し、幕末の新興神道の一つで幕末三大新宗教に数えられ、神道十三派の草分けでもある「黒住教」の教祖である黒住宗忠(1780-1850)を祀る神社。
「宗忠神社」という名前の神社は京都市左京区(京都神楽岡宗忠神社)および、黒住宗忠の生地で黒住教の本部のある岡山県岡山市北区(大元宗忠神社)にあるため、岡山の宗忠神社との区別のため、京都のものは鎮座地名から「神楽岡宗忠神社」とも呼ばれます。
黒住宗忠は江戸後期の1780年(安永9年)に備前岡山藩の守護神社・今村宮の神主の家に生まれ、1814年(文化11年)の冬至の日、朝の太陽を拝しているうちに神人一体の霊感を受けて黒住教を創始し、以後布教を重ねた後、1850年(嘉永3年)2月25日に没しました。
教義に関する教祖の自筆文章は「日々家内心得の事」のみで、ほかに和歌と書信が残されているといいます。
黒住教の教義は、天命を宇宙創造の中心とし、人心をその分霊とみて神人合一を説くもので、伝統的な神祇観に近く、神道界や尊皇思想家に受け入れられました。
そしてその教えは近隣地主層から岡山藩士へと広がり、弘化年間に教団組織が確立し、1876年(明治9年)に神道事務局から別派独立として公認され、1882年(明治15年)に神道黒住教となっています。
宗忠の没後6年後の1856年(安政3年)には、高弟の一人である赤木忠春らの運動で朝廷より「宗忠大明神」の神号を下賜され、1862年(文久2年)2月25日、吉田神社から吉田山神楽岡の社地の一部を譲り受け、赤木忠春が社殿を建立し宗忠を祀る神社を創建したのが神楽岡宗忠神社のはじまりです。
激動の時代であった江戸末期に、大衆のみならず皇室や二條家、九條家といった公家からも厚い崇敬を集め、建立されて3年後の1865年(慶応元年)には孝明天皇唯一の「勅願所」にもなり、幕末の尊王討幕運動の一拠点となりました。
そして1866年(慶応2年)には神階従四位下を賜り、明治時代には県社に列格され、また皇室の祖神とされた天照大神を最高神としていたことから明治政府による天皇崇拝を旨とし天皇思想を国民に広める一大教化運動「大教宣布運動」にも積極的に参加して全国各地に布教を展開しました。
現在の「本殿」は流造で1912年(明治45年)に、「拝殿」は1937年(昭和12年)に改築されたもの。
また本殿と並ぶ「神明宮」は二条家より遷されたもので、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀っています。
その他にも白山比咩大神を祀る「白山社」や赤木忠春(赤木忠春神)を祀る「忠春社」などがあります。
そして境内の「神井戸」は井戸を掘る時にはなかなか水が出ませんでしたが、赤木忠春が井戸に御神水を注いだところ、翌日には水が沸いていたといい、神慮に適わぬ事があると水が濁ると伝えられている霊泉です。
例祭は本殿は毎年4月、神明宮は毎年10月に執り行われ、近年は正参道の桜並木を中心に桜の名所としても有名となりつつあります。
なお宗忠の生誕の地である岡山県岡山市北区上中野にも、1885年(明治18年)に宗忠神社が建立されていますが、宗忠の教えが国学者・足代弘訓により「神道の教えの大元」と称えられたことにより、同地は「大元」と呼ばれ「大元宗忠神社」と通称されています。