京都市左京区銀閣寺町、世界遺産の銀閣寺正門の左隣にある浄土宗の寺院。
京都の夏の一大行事「五山送り火」の一つである如意ヶ嶽(大文寺山)の「大文字」を管理することから「大文字寺」とも称されるお寺です。
山号は清泰山(せいたい)、本尊は足利義政の持仏である阿弥陀如来。
銀閣寺(慈照寺)の場所にはかつて「浄土寺」という天台宗寺院がありました。
現在も京都市左京区に残る「浄土寺」という地域名はこのお寺があったことによるものだといいます。
この浄土寺の創建年代等については不詳も、平安中期の986年(寛和2年)に醍醐天皇の皇子・有明親王の妃・藤原暁子が浄土寺で出家し、有明親王の子・明救(みょうぐ)が入寺して以来皇室との関係が深く、また門跡が多数入っていた近衛家から橘御園の寄進を受け、更には応仁の乱で室町幕府第8代将軍・足利義政と対立した義政の実弟・義尋(後の足利義視)が入寺するなど繁栄していたといいます。
しかしその浄土寺は室町時代に「応仁の乱」の戦火で焼失し、その跡地に1482年(文明14年)、足利義政によって山荘・東山殿が造営され、のち慈照寺(銀閣寺)となりました。
そしてわずかに残っていた浄土寺の堂宇は、相国寺の西付近に移されたといいますが後に廃絶。
その後江戸中期の1722年(享保7年)、泰誉浄久(たいよじょうきゅう)が浄土寺の名を引き継ぐために塔頭の寺を統合し浄土宗の寺として復興し、浄土寺の跡地に小さな堂を建立し名を「浄土院」としました。
1732年(享保17年)には、随誉(ずいよ)によって堂宇が再建されされていますが、現在の堂宇は昭和初期に再建されたものだといいます。
本尊は本堂に安置する等身大の黒本尊・阿弥陀如来坐像。
平安時代、慈覚大師作の作で旧・浄土寺の本尊と伝わり、「坊目誌」に「義政公の持仏なり」と記されています。
また浄土院では弘法大師空海も併せて祀られており、毎年8月16日に開催される「五山の送り火」の際には山上の弘法大師堂にて、住職が般若心経の読経を行った後、20時には堂の灯明から親火に点火され、送り火の行事がスタートするが恒例となっています。
送り火の起源として諸説あるうち、平安時代に浄土寺が火災に遭った際に、本尊の阿弥陀如来が大文字山上に飛び光を放ったことから、火を用いる儀式が起こり、空海が人の体を表す大の字に改めたという「弘法大師空海説」がありますが、これにちなんだ法要だといいます。
そして送り火が始まる前日と当日の昼には大文字保存会による護摩木の奉納の受付が門前横の銀閣寺の左手前に設置されたテントにて行われ、多くの参拝者で賑わいます。
薪のような松割木と通常の護摩木の2種類あり、浄土院門前の筆記スペースにて「先祖代々之供養」や「家内安全」「無病息災」などの文字を書き込んで奉納し、奉納された護摩木は大文字山に運ばれて、当日の送り火にて焚き上げられます。
境内にはその他に丹後局(高階栄子)の立像がを祀られています。
丹後局は平安末期に「日本の楊貴妃」と呼ばれるほどの美貌を持ち、後白河上皇の寵愛を受けて政治にも影響を及ぼし権勢を振るい、晩年は浄土院の前身である浄土寺に居住し「浄土寺二位尼」と呼ばれたという寺院ゆかりの女性です。