京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町、臨済宗建仁寺派大本山である建仁寺の境内の南西隅に位置する建仁寺の塔頭寺院。
建仁寺は鎌倉時代の1202年(建仁2年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家が我が国の臨済宗開祖として知られる栄西を開山として創建し、京都五山の第3位の伝統と格式を誇る大寺院です。
禅居庵は鎌倉後期の元弘年間(1331-33)(1333年(元弘3年)とも)、信濃守護・小笠原貞宗が自身が帰依している元国からの来朝僧で晩年退隠した建仁寺第23世・清拙正澄(せいせつしょうちょう 1274-1339)(大鑑禅師)を開山にその建仁寺の塔頭として創建されました。
清拙正澄は中国福建省福州の出身の禅僧で、北条高時の招きで鎌倉に招かれ、建長寺、浄智寺、円覚寺に住持した後、1333年(元弘3年)に後醍醐天皇の招請により京都・建仁寺に住し、のち南禅寺の住持も歴任した人物です。
その後天文の兵火で荒廃した後、1547年(天文16年)に織田信長の父・織田信秀によって再建され、元禄、享保、安政の年にそれぞれ大改修がなされた後、明治、平成にも改修が加えられ現在に至っています。
本尊は聖観音菩薩ですが、その他に開山・清拙正澄が鎌倉末期の1326年(嘉暦元年)に来日する際、元で自らが作ったものを袈裟に包んで船に乗せて招来したと伝わる摩利支天像(まりしてん)を「摩利支尊天堂」に鎮守として祀っていることで有名で、東京の徳大寺や金沢の宝泉寺とともに「日本三大摩利支天」の一つにも数えられています。
摩利支天は陽炎(かげろう)を神格化したという古代インドの女神で、後に仏教に取り入れられ、中国を経て日本へと伝来したもので、毘沙門天や大黒天などと同様に「天部」の一柱として本尊の鎮守として祀られることが多く、頭に宝冠を戴き、身には甲冑をつけ、三面六臂の憤怒の相で、6本の手には弓矢や剣、害するものの口や目を縫うための糸針などの武器を持ち、猪の上に乗った姿で描かれます。
ゆらゆらとして実体のない陽炎は捕らえられ傷つけられることがなく、害されることがない所から、開運・勝利の神として、とりわけ戦国武将の間に摩利支天信仰が広がったといい、楠木正成や前田利家は兜の中に小さな像を入れて戦に臨んだといわれ、江戸時代には開運勝利・七難除けに霊験あらたかとして庶民信仰の対象となり、現代においても必勝を祈願する受験生やスポーツ選手などからも高い人気を集めているといいます。
禅居庵の摩利支天はお堂の周囲を回りながら願をかけると必ず叶うと伝わり、摩利支天像は秘仏で通常非公開ですが、毎年10月20日の大祭の時に限って御開帳されています。
また別名「猪の寺」と呼ばれている通り、境内には狛猪をはじめとして数多くの猪の像や彫刻があり、猪の描かれた絵馬や可愛らしい姿の猪のおみくじの授与も行われてますが、これは猪が摩利支天の使いとされていることに由来しているといい、摩利支天像も7頭の猪の上に乗っている姿をしていて、その亥を従えた姿から亥歳生まれの人の守り神として深く信仰を集めているほか、毎月最初の亥の日や12年に一度の亥年の際には、とりわけ多くの参拝者が訪れます。
建仁寺の境内に入口の門のある禅居庵の本堂の方は通常非公開で、摩利支尊天堂がある側だけが常時拝観が可能となっており、大和大路通や八坂通側にある入口門から境内に入って参拝する形となります。
行事としては毎月最初の亥の日である「ご縁日」のほか、1月10日の「新年祭」や2月節分の「星祭」、そして秘仏・摩利支天像の公開され開山毎歳忌法要や山伏による採燈大護摩供などが執り行われる10月20日の「御開帳大祭」などが知られています。
また寺宝としては海北友松筆の「松竹梅図」の襖絵12面が重要文化財に指定されていますが、現在は京都国立博物館に寄託されています 。