京都市東山区大和大路通四条下ル、鴨川を渡って四条通の南側、建仁寺の西側を南北に通る大和大路通沿いにある神社。
七福神の一つで「商売繁盛」の守り神として知られる「恵美須神(ゑびす神)」を祀り、「商売繁盛で笹もってこい」のかけ声が境内に響く中で多数の応募者の中から選ばれた50人の福娘が奉仕する大阪の「今宮戎神社」、一番福を目指して境内を駆け抜ける開門神事「福男選び」で有名な兵庫県の「西宮神社」と並んで「日本三大ゑびす」と称され、「京のえべっさん」として市民から親しまれています。
鎌倉初期、前土御門天皇の時代の1202年(建仁2年)に臨済宗の祖として知られる栄西(えいさい)が建仁寺の建立にあたってその鎮守社として創建したのがはじまり。
1191年(建久2年)、栄西が宋からの帰国の途中で暴風雨に遭い遭難しかけた所を、海上に恵美須神(ゑびす神)が現れ、その加護により難を免れたことから厚く信仰するようになったと伝わっています。
ちなみにこの栄西が無事に帰国した故事にちなみ、航海の安全(海上交通安全)・旅行安全のご利益でも知られおり、「旅えびす」とも呼ばれています。
かつては建仁寺の境内に祀られていましたが、室町時代の1467年((応仁元年)~1477年(文明9年)に「応仁の乱」の戦火により建仁寺が焼失した際、その再建に際して現在地に移転。
現在まで地域住民の産土神として崇敬を集めています。
「えべっさん」といえば、何といっても1月10日とその前後に行われる「十日ゑびす」が有名です。
西日本では一般的な行事として知られていて、恵比須神社(京都ゑびす神社)においても1月8日~12日の「十日ゑびす(初ゑびす)大祭」では、縁起物の「福笹」を求める多くの参詣者が連日連夜にわたって詰めかけます。
期間中は行事も多彩で、「招福まぐろ奉納」や東映太秦映画村の2人の女優が駕籠に乗り込み、神社を参拝に訪れる「宝恵かご社参」、「映画村女優による福笹の授与」や祇園の「舞妓による福笹と福餅の授与」などが行われるほか、大和大路通では交通規制が行われ、屋台も出て大変な賑わいとなります。
また秋にはゑびす大神が海にお帰りになる「十日ゑびす大祭(初ゑびす)」と対をなし、海からおいでになられた旧暦の9月20日(現在の10月20日)に執り行われるという「二十日ゑびす大祭(ゑびす講)」も開催されるほか、正月から1か月の間京都の7つの寺社で開催される「都七福神」めぐりは、室町時代に京都で民間信仰として日本で最初に七福神信仰はじまった京都の新春の恒例行事として知られ、恵比須神社(京都ゑびす神社)もその一つに選ばれています。
その他にも境内には古くなった財布や名刺の供養のため築かれた「名刺塚」および「財布塚」があり、「名刺塚」はパナソニックの創業者・松下幸之助(まつしたこうのすけ 1894-1989)の揮毫によるものとして知られ、また「名刺塚」では毎年9月の第4日曜に出世して不用になった自分の名刺や、頂いたものの不用になった相手の名刺を焚き上げる「名刺感謝祭」が開催されています。
最後に恵比須神社(京都ゑびす神社)には一風変わったユニークな参拝方法が行われていることでも知られています。
一つ目は二の鳥居の上部の扁額部分には、恵美須神(ゑびす神)の顔と熊手も一緒にあしらわれた「福箕(ふくみ)」が付けられていますが、ここに向かってお賽銭を投げ入れ、上手く入る願いが叶うといわれています。
ちなみに「箕(み)」とは穀物をふるい殻やごみを降り分けるための籠状の農具のことで、「十日ゑびす大祭」では「福熊手(ふくくまで)」で福をかき集めて「福箕(ふくみ)」ですくい取るとして授与される縁起物の一つとして人気があります。
ただし「十日ゑびす大祭」の期間中は、混雑解消のため、白い布で覆われてお賽銭を投げられなくしてあります。
もう一つが本殿の正面向かって左側の壁に設けられた「たたき板」で、「優しくトントンと叩いて下さい」という掲示もなされており、参拝者は本殿にお参りした後、神妙な面持ちで板を優しく叩いてから手を合わせていきます。
これは恵美須神(ゑびす神)が、かなりの高齢であり耳が遠く、本殿前の鈴を鳴らすだけでは気が付かない心配があることから、お参りに来たことを叩いて知らせるもので、古くから風習として行われているといいます。