京都市東山区東大路通松原上ル下弁天町、「東山安井」交差点角に鎮座する、縁切りおよび良縁・縁結びのご利益で知られる神社。
第38代・天智天皇(てんちてんのう)の代(668~71年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)(中臣鎌足)が一堂を創建し、紫色の藤を植え「藤寺」と号し、藤原家一門の隆昌と子孫の長久を祈願したのがはじまりとされています。
平安後期には、第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)(在位1123~41年)が特にこの藤を好まれ、1146年(久安2年)に堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍(あわのないし)(烏丸殿(からすまどの))を住まわせました。
その後崇徳上皇が1156年の「保元の乱」に敗れ、配流先の讃岐国(香川県)で崩御した際には、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂に祀ったといいます。
そして平安末期の1177年(治承元年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂に籠った際、崇徳上皇が姿を現わしたことが後白河法皇(ごしらかわほうおう)に奏上されると、法皇の命により「光明院観勝寺」が建立されました。
その後「応仁の乱」(1467~77)の兵火により荒廃しますが、江戸初期の1695年(元禄8年)、太秦安井(京都市右京区)にあった「蓮華光院(安井門跡)」が当地に移建されるとその管下となり(後に光明院観勝寺は廃絶)、その鎮守として崇徳天皇に加え、讃岐の金刀比羅宮より勧請した金毘羅権現(後に大物主神と改められる)と、源頼政を祀ったことから「安井の金比羅さん」の名で知られるようになります。
そして明治維新後の「神仏分離令」によって院が廃されて「安井神社」となった後、第2次世界大戦後に「安井金比羅宮」と改められて現在に至っています。
祭神は「日本三大怨霊」にも挙げられることのある崇徳天皇。
この点、崇徳天皇は「保元の乱」で讃岐に流された際に、讃岐の金刀比羅宮で欲を断ち切ったことから、「断ち物(絶ち事)」の祈願所として信仰を集めています。
悪い縁を切り、良縁を結ぶという、縁切りおよび良縁・縁結びのご利益で知られ、境内の「縁切り縁結び碑」は身代わりの札である「形代」に願い事を書き、碑の中央の円形の穴をくぐり、形代を碑に張り付けてという参拝方法が珍しく、前からくぐり抜けると悪縁を絶ち、後ろからくぐると良縁を結ぶといわれています。
男女の仲のみならず、酒やたばこ、病気などとの縁を絶ちたい人も数多く訪れることから、碑には切実な願いが書かれた形代がびっしりと貼り付けられています。
その他にたくさんの奉納絵馬がある「金比羅絵馬館」や、アール・ヌーボーの作品を展示する「ガラスの部屋」なども見どころです。
また春になると境内には染井吉野が咲き、特に願掛けされた絵馬と桜とのコントラストが見ものです。
行事としては9月の第4月曜日に開催される、古くなったり傷んだ櫛や簪を、感謝を込めて供養する「櫛まつり」が有名。
境内の久志塚(櫛塚)前で神事が行われた後、拝殿で舞踊「黒髪」の奉納、更に日本の各時代の髪型に鬘を使わずに、全て地毛で結いあげて髪を結って装束をまとった女性たちによる「時代風俗行列」が神社周辺および祇園界隈を練り歩き、毎年マスコミや多くの見物客で大いに賑わいます。