京都市東山区三条大橋東詰にある京阪本線・鴨東線の駅で、京都市営地下鉄東西線の「三条京阪駅」と連絡し、市営地下鉄と京阪の連絡する交通の要衝として知られる駅。駅スタンプは三条大橋と高山彦九郎像。
1912年(大正元年)8月15日、京津電気軌道(現在の京津線)の「三条大橋駅」として開業したのがはじまり。
そこに1915年(大正4年)10月27日、大阪から北上してきた京阪電気鉄道の京阪本線の終点として「三条駅」が開業され、その後1925年(大正14年)に京阪による京津電軌の吸収合併で京阪電気鉄道の京津線となった後、1949年(昭和24年)11月に京津線の三条大橋駅と京阪本線三条駅が統合されて「三条駅」となります。
一方、京阪電気鉄道は1943年(昭和18年)に京阪神急行電鉄(現在の阪急)と一時合併されましたが、戦後の1949年(昭和24年)に京阪神急行電鉄(阪急)から京阪電気鉄道(現在の京阪)が再度分離した際、以後は再び京阪の駅となります。
以前は三条通の南、三条大橋東詰南に駅施設のある地上駅で、電車は琵琶湖疏水(鴨川運河)と鴨川に挟まれた堤防上を走っていましたが、1935年(昭和10年)に発生した「鴨川水害」で三条大橋が倒壊・流出し、京阪線のホームも破損するなど鴨川流域一帯に大きな被害を与えたことから、以後、鴨川の洪水対策として川底を掘り下げなどが行われるとともに、京阪線を地下化し鴨川を拡幅する計画も作成されますが、戦時体制のため計画は事実上の一時中断。
しかし1960年代末からの自動車社会の到来に伴い、東大路通および河原町通の混雑を緩和の必要性から、また鴨東線の地下鉄道による新設計画もあり、京阪線の地下化と線路の跡地に川端通を新設する都市計画が決定され、1979年3月に着工、1987年5月に地下化が完了するとともに線路跡地に川端通が開通、駅も地上駅から地下駅となり現在に至っています。
京都市電の駅こそありませんでしたが、京都と大阪を結ぶ京阪本線の終点であり、また京都と大津を結ぶ京津線の乗換駅であり、周辺地域が「三条京阪」と呼ばれるように京阪の京都市街におけるターミナル駅であり、また隣接する三条京阪バスターミナルから洛北方面への乗り換え駅として、京都市内における交通の要衝として、また京都観光の拠点として重要な役割を果たしてきました。
もっとも1989年(平成元年)10月5日に三条駅から北の出町柳駅の間に京阪鴨東線が開業されると、京阪本線と京阪鴨東線との相互直通運転が開始され、京都における京阪の路線は出町柳まで北上し更に出町柳から叡山電車にて鞍馬や八瀬などまで通じ非常に便利になった反面、京阪の京都における終着駅の地位は出町柳駅に譲り、三条駅は事実上の途中駅となります。
また三条駅から滋賀県の大津までを結ぶ京津線についても、1987年(昭和62年)に三条駅から「京津三条駅」と改称・分離された後、1997年(平成9年)10月12日に京都市営地下鉄東西線に「三条京阪駅」が開業したことで京津線の京津三条~御陵間が廃止されるとともに京津三条駅も廃止され、現在は京都市営地下鉄東西線の三条京阪駅との連絡駅となっています。
現在駅のシンボルとなっているのは三条大橋交差点北東に建つ京阪三条北ビルと、交差点より川端通を南へ少し下がった所にある京阪三条南ビルで、いずれも1987年5月の京阪本線の地下化と同時にオープンし、地下で三条駅の地下コンコースと直結されています。
また駅のシンボルともいえるのが三条大橋交差点の南東角にある江戸中期の尊王家で吉田松陰をはじめ幕末の志士たちに大きな影響を及ぼしたとされる「高山彦九郎像」で、正座をして両手を前につけて皇居を遥拝するその姿から通称「土下座像」とも呼ばれ、待ち合わせスポットとしても知られています。