京都市左京区川端通三条上る法林寺門前町、京阪三条駅のすぐそば、三条大橋東詰の三条大橋交差点の北東側にある浄土宗寺院。
正式名称は「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ)」。
鎌倉時代の1272年(文永9年)に浄土宗三条派の派祖・望西楼了恵(ぼうせいろうりょうえ 1243-1322)が亀山天皇の帰依を受けて「朝陽山」の山号を賜り、宗祖・法然の浄土の真義を伝える念仏道場として三条の地に創建した「悟真寺(ごしんじ)」がはじまり。
この点「三条派」は浄土宗の第3祖・良忠(りょうちゅう 1199-1287)の門下から分かれた六派の一つで、その教えは法然の教えを忠実に守るもので、了恵が法然の教義をまとめた「黒谷上人語灯録」は上人の教えを知る上で貴重な史料となっています。
悟真寺はその後「応仁の乱」をはじめとする度重なる天災・人災の被害を受けて戦国時代の永禄年間(1558-69)に焼失したと伝わり、その地に江戸初期の1611年(慶長16年)、袋中(たいちゅう 1552)が再興したのが現在の「檀王法林寺」です。
袋中は磐城国(現在の福島県いわき市)に生まれ、14歳で出家し諸国を巡って修行を積んだ後、念仏の教えを極めようと明への渡航を目指しますが叶わず、3年間を琉球王国(現在の沖縄県)で過ごすこととなり、その帰国後に京都に入り、了恵が開いた悟真寺の跡地に草庵を建立し「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」と名づけて再興。1619年(元和5年)には「法林寺什物帖」を書き残し、寺を弟子の團王(だんのう)譲って東山五条坂に創建した袋中庵に移り住みます。
そして袋中の跡を継いだ第2世・團王は恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像を本尊とする阿弥陀堂(本堂)として建立するなど、寺域を現在の広さにまで拡大させるなど寺勢の拡大に尽力したほか、人徳も厚く町衆信者との交流を深めたことから、庶民から親しみを込めて「だんのうさん」と呼ばれたことが、現在の寺名の由来となっているといいます。
更に第12世・良妙(りょうみょう)の代に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の娘(五女・和子)で霊元帝の養母・東福門院の位牌が祀られその菩提所とされると、皇室や徳川家との関係が深まり、その保護を受けて発展。
そして1738年(元文3年)に本堂が再建された際には寺内に皇室の菊御紋、徳川家の三葉葵紋の調度が許されるようになったと伝えられ、また本堂は屋根を瓦葺き、扉を唐戸にし、内陣には須弥檀を拡張し「来迎柱」を建て堂内外に彫刻を施すなど、荘厳を極めたもので、現在にその姿を伝えています。
また檀王法林寺には「主夜神(しゅやじん)尊」という神様が祀られていて、江戸中期の宝暦年間(1751-64)にはその主夜神信仰の人気を受けて最盛を極めたと言われています。
この点、主夜神は当山を開いた袋中(たいちゅう)によって感得され、日本で初めて当山に祀られるようになった神様で、主夜は守夜と転じて夜を守る神として崇められ、盗難や火災などを防いでくれるご利益を持つ神様とされました。
この主夜神尊の信仰は、霊元帝をはじめ皇室による保護をうけて発展したといい、中でも有栖川音仁親王一族は主夜神尊への信仰が厚かったといい、良妙が建立した主夜神堂に有栖川職仁親王筆の「婆珊婆演底神最初示現之処」の勅額が掲げられているほか、江戸中期の1766年(明和3年)には朱塗りの開運門(赤門)を寄進しており、これは現在も川端門として現存しています。
そして古くよりその主夜神の使いとされているのが黒猫で、同寺には寺社関連では日本最古の伝承を持つ招き猫伝説が残されており、江戸の中頃より右手を挙げ主夜神尊の銘を刻んだ招福猫が作られ、民衆より信仰を集めていたといいます。
現在では毎年12月の第1土曜日に「招福猫・主夜神大祭」が行われ、秘仏である主夜神像が御開帳されるほか、参拝者には主夜神尊のお札や厨子の中から見つかったという黒い招き猫の復刻像が授与されるといいます。
この他に教育にも熱心なことで知られ、戦後の混乱期に当時の住職夫妻が労働条件の厳しい家庭の母親を助けようと境内に保育園を開園、続いて日本で初の夜間保育園を創設したほか、地域児童のために「だん王児童館・子ども図書館」を設け、現在も境内には保育園や児童館などが併設されていて、子どもたちの声で溢れています。
また袋中が3年間琉球国に滞在し現地に桂林寺を建立したほか、25世・良哉、26世・良文が沖縄に袋中寺を建立するなど、袋中以来の琉球沖縄との交流は深く、仏像のほか絵画や曼荼羅、書や屏風に加え、袋中上人に由来する琉球の工芸品等多数の文化財を擁するほか、境内の保育園では「だん王エイサー隊」が結成され、沖縄から講師を招いてはエイサー踊りの上達に励んでいるといいます。