京都市中京区木屋町通三条下ル石屋町、三条通と木屋町通の交差点のやや南、江戸日本橋から続く東海道の京都側の終着点「三条大橋」のたもとにある浄土宗西山禅林寺派の寺院
開山は立空桂叔、山号の慈舟山(じしゅうざん)は高瀬川を往来する船にちなんだものといい、本尊は阿弥陀如来。
江戸初期までの鴨川の川幅は現在の河原町通りくらいまであったといい、同地は三条河原の中洲だった場所で、1611年(慶長16年)、豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が豊臣秀吉の甥・豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため創建したと伝わっています。
この点、豊臣秀次は秀吉の実姉・日秀(瑞龍院)の子として生まれ、実子に恵まれなかった秀吉から一族として重用され、近江国を与えられて八幡城を築きますが、その後秀吉の側室となった淀殿との間に生まれた鶴松が幼くして亡くなると、既に55歳であり実子は望めないと判断した秀吉はその後継者として秀次を養子とし、関白の位を譲られて聚楽第に住することとなります。
ところがその後秀吉が57歳の時に淀殿が拾(のちの豊臣秀頼)を生んだことから事態は急変。
実子である拾を後継者としたい秀吉から次第に疎んじられるようになり、遂には1595年(文禄4年)7月に謀反の疑いをかけられて高野山へと追放され、ほどなく切腹し悲運の最期を遂げることとなります。
更に翌月8月2日には、秀次の一族である5人の子と34名の妻妾の計39人が三条河原の南西詰にて次々と処刑・打首とされることに。
処刑場には大きな塚が築かれて河原に埋められたといい、その塚の頂上には秀次の首を納めるとともに「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が置かれ、往来する人々に「畜生塚」として見せしめとされたといいます。
その後、塚は鴨川の氾濫などで次第に荒廃してしまいますが、それから16年経った慶長16年(1611年)、了以が高瀬川の開削工事している最中に、偶然荒廃した塚と石塔を発見。
これを哀れんで大いに心を痛めた了以は、浄土宗西山派の僧侶・立空桂叔に相談。
また前年の1610年(慶長15年)に亡くなっていた了以の実弟で医師の吉田宗恂が秀次に仕えていたとう経緯もあり、慶長16年が宗恂の一周忌にもあたることから、秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て寺院を建立することとなったのです。
この際に碑面から「悪逆」の2字を削り、また新たに墓域を整備して墓碑を立てるとともに、その側に堂を造営。
そして寺名は京極・誓願寺の中興・教山が新たに秀次に贈った戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って「瑞泉寺」と命名されました。
以来現在まで400年間に渡って「秀次事件」によって死罪となった秀次と、連座した一族・家臣の菩提が供養され続けています。
境内入口に「豊臣秀次公一族終焉之地 旧三条河原跡」と刻まれた石柱が建ち、本堂に了以とその長男・角倉素庵の像が安置され、境内一番奥の南西角に了以が整備した墓域があり、秀次の墓を正面に、共に殺された子女たちの墓石がその周囲に並ぶ形となっています。